第四章
 佐野から宝塚に帰って来たその週末、早速バイク屋に川崎の赤いRXを注文し行った。しかしそのバイク屋は、黒色のRXしかないし、どうせなら新型のZX10にしたら、といい加減な対応する。頭にきた僕は「赤のRXだったらここで買うけれどそれが無理ならよそをあたる」と言って店を飛び出そうとした。ここまでしてようやくバイク屋のオヤジは事態が飲み込めたようだった。
 次の週末には赤いRXに乗っていた。久々の新車だった。金が無かったのでほぼ全額ローンを組んだ。借金でもなければ会社勤めなんてやってられなかった。それにしても月々安い給料でこき使われた。夏休みに入る前にようやく慣らし運転が終わったので全開をくれてやったら流石に凄い加速で発進の度に脳味噌が後ろにぶつかって頭が痛くなったり気分が悪くなったりした。それに前方の車が一瞬にして目の前やって来るのでかわすのに大変だった。フル・パワーの世界最速車とはなんという世界だと思った。白バイもパトカーも関係無かった。しかし赤い川崎を気持ち良く走らせようとしても娑婆はゴミゴミしていてごみ貯めの様な公道を走ってもストレスがたまるばかりだった。悩んだ末、一年に数回だけ連続した時間長距離を走る事で妥協する事にした。
 佐野絶望工場から今度は宝塚絶望劇場に移って来た。ここではサラリーマンとしての嫌な事ばかりを体験する事になるのだが、まだまだ泡が膨らみ始めた頃で比較的ノンビリとしていた。僕の仕事はある産業機械の電気部分を設計する仕事で、つまりまぁ電気屋だ。そのある産業機械自体は昔から携わりたかった憧れの機械で我が儘が通った所まで、そこまでは良かった。しかし、そのある産業機械を設計しているグループの上司や先輩社員は癖のある人が多くその人間関係に馴れるまでにかなりの時間がかかった。
 金曜日に会社から寮に帰ってしばらくすると、電話がかかってきたと、館内放送で呼び出された。
聞き覚えのある声だったが事態はすぐには把握出来なかった。
 山内さんだ。
 僕は新しい赤い川崎を手に入れて、宝塚で新しい生活を始めていたので、人生をやり直したくらい新鮮な気持ちの毎日だった。
 彼女は、久々の親孝行で今一緒に有馬温泉に来ているの、明日京都の何処で何時に待ってたらいいのか、と聞く。えっ、どうやら日時まで約束していたみたいだ。正直に言って山内さんと京都でデートする約束などすっかり忘れていた。
 翌日、京都の鴨川にかかる四条大橋のたもとの中国料理屋の階上のテラスで、眼下に鴨川と四条大橋と増え始めたカップルを見下ろしながら山内さんとの話が始まった。その時はヴィム・ヴェンダースの「ベルリン天使の詩」の事なんて全然脳裏に無く、勿論まだ観ていなかったから山内さんの事なんてあまり真剣に考えていなかった。
 世間話から始まってお互いに近況報告をした。
 僕は近況報告の延長線上のような感じで、つい最近、成り行きから別の女の子と親しく付き合うようになった事を、自分の姉に報告するような感じで山内さんに伝えた。
 その直後は何が起こったのかはわからなかった。かなりの長い間の沈黙が続いた。
「はっきり言ってとっても今腹が立っているかもしれない」と山内さんは視線を遠くの方にやりながら彼女特有のボソボソと呟くような調子で言った。僕は空を見上げて黙り込むしか無かった。その後、彼女は無言でビールの中ジョッキを何杯もおかわりして飲み続けた。予約した旅館が全くの偶然で同じ所で、お互い終始無言で夜の街を鴨川から東本願寺にある旅館まで歩き続けた。彼女がもう少し若くて自分の感情を外に出すタイプの人なら彼女の態度如何で状況はもっと劇的に変わっていたかもしれないが彼女は全て自分の内面で処理しようとして長い時間をかけて彼女自身の内面を彷徨っているように見えた。
 山内さんは常々僕の専業主夫論に同調してくれていて、よく思い返せば「私が稼ぐわ」とも言ってくれていた。
 この専業主夫論とは、奥さんが働いて、夫は家庭に籠もって家事や育児に専念するというものだ。奥さんは仕事、仕事に明け暮れて、夫が手の込んだ夕食を準備して奥さんの帰りを待っていてもなかなか帰って来ず、ようやく日が変わって帰宅した奥さんは「課長と飲んできたの、夕食? いらない、それより水、水ちょうだい」なんて調子で酔っぱらっていて、朝は朝で奥さんより早く起きて子供の弁当作って、奥さんと子供を起こして、奥さんを見送ってから子供を幼稚園まで送って行って、それから家に戻って掃除、洗濯して買い物行かなくっちゃ、と思っていたら「もうこんな時間」、弁当の残りものでお昼ご飯をすまして、そう言えばまだ今日はコーヒー一杯も飲んでなかったわ、急いでコーヒーいれて、テレビでお昼のワイド・ショー見ながら、それが終わったら連続ドラマ、そうそう続きものの愛の劇場なんて観ながら、洗濯物乾いたかしら、なんていいながら、今度は買い物ね、今晩は何を作ろうかしら、あらいけないもうこんな時間、あの子迎えにいかなくちゃ、ってな具合の生活を僕は想像して憧れていた。男女雇用機会均等法が施行されて、男女が性別の区別なくして本当に同等で平等であるというのなら僕の様に専業主夫願望を持ってもおかしくないと思う。
 後でわかった事だが、山内さんは学校を卒業した後は大阪の病院に就職してもいいと思っていたらしい。本当に僕の専業主夫を実現させようと思っていたらしい。
 一度山内さんに聞いた事がある。「他人に精神医療を施してその時にたまる自分のストレスはどうして処理するの」と。その時の答えは「そうよ、それが問題なの。私だって疲れるし、自分の中にも解決出来ない問題があって、そんな自己矛盾をなんとか誤魔化して前に進めるには、何かが必要なのよ、何かが」
 京都で山内さんに会ってからかなり経って、僕は出張で週末を東京で過ごす機会が増えた。連絡が取れた時には何回か山内さんに会った。近況を尋ねると久々に幸せな時間を取り戻せそうだから邪魔しないでねと言ったが、次に会った時は何も返事が無かった。その次の時には他人の人生だからどうでもいいでしょう、と言われた。その次の時、僕は親しく付き合うようになった女性との事に触れ、もう別れたというか、もうどうでもよくなった、とこちらから切り出した。しばらくして山内さんは怒り出して、日曜の昼間から、あるビール会社の直営店でビールを飲んでいて、あそこは渋谷だったか新宿だったかは忘れたけれど、彼女はそんな店を色々を知っていて、そこの丸いテーブルにある、かなり腰の高いイスに座って話しをしていたのだけれども、彼女が怒った瞬間右手で思わず二人のビア・グラスを払いのけた格好になり、グラスは床に落ちて底の厚い所だけを残して粉々に砕け散った。まだ他の客は少なかったけど全員がこちらを見た。店員が飛んできて「怪我は無かったですか」と社交辞令を述べ早々にグラスをほうきでちりとりに納め、モップを持って来て床を拭いた。我々はそれらの一連の行為を一切無視し、彼女が唇を震え始めるのを正視出来なくなった僕は視線を外した。やがて彼女は重い口を開けビールのおかわりを注文した。新しく運ばれてきたビールを一口飲んでから彼女は「私は何なのよ? あなたは前に私ではなく彼女を選んだのでしょう、その彼女とうまく行っているのならまだしも、よくもまぁぬけぬけと別れたなんて事私に言いに来たわね。そんな話わざわざ聞きに来た私は何なのよ、ああ馬鹿らしい、私ってつくづく男運無いのよね、それで何がいいたいの、昔から言っているように男女間に友情は絶対成立しないの、それなのにまだあなたは事の本質を、友情だ何だ、姉だ弟だと話を誤魔化して全然の私の事も分かっていないし、女の人の事もわかっていないわ、人間の事も全然わかっていないのじゃない、きっと、よくもまぁこんな未熟な男に一時とはいえ好意を持った自分が嫌になるわ、我が人生最大の汚点よ、貴重な二十代を返してよ、返せこの時間泥棒、返さないのなら今度は私の方からお返しするわ、ずーっと、延々とねちねち、ねちねち陰湿に、陰険に、あなたのこれからの人生にお返しするわ、私決めたもの、冗談じゃないわ、やられっ放しじゃ腹の虫が収まらないもの、いいから覚悟して」と、一気に吐き出した。僕はただ黙って聞くしかなかった。
 この時以後、山内さんには二度と会ってもらえなくなった。
 失ってから初めて事の重大さに気がついた。僕はこの時から反省はするが後悔をしない人生を送れるよう努力するようになった。
 ある日、田中裕子という女優と同じ名前の女性と大原恵子という女性からの手紙が同時に届いた。田中裕子は中国桂林で漓江下りを一緒にした後で、しばらく桂林で時を過ごした。大原恵子とは上海の浦江飯店で東条洋子に出会う前に上海大厦のロビーで出会って、黄浦公園や外灘を歩いて色々な話をした。
 二人の手紙は中国から日本に帰ってからの簡単な近況と、中国旅行と再開した日常の生活との隙間を埋めるに苦労した話が中心だった。ただ全くの偶然に、二人の手紙の追伸には、何か憂鬱な匂いを暗示させる一言が添えられてあった。
 僕は二人に宝塚で始めた新しい生活の事を簡単にまとめた同じ内容の手紙を書いて返事を出した。
 あまり日をおかず大原恵子からの手紙が再び届いた。
 まだ当時は寮の部屋には電話が無く、管理人室に一つ黒電話があり、ロビーに一つ赤電話があるだけだった。深夜になり、何故だか大原恵子からの手紙の内容が気になって電話をかけに駅前まで歩いて行った。カーカーの集合管をつけた川崎を夜中に引っ張り出す気にはならなかった。
 深夜だとういうのに数回のコールで大原恵子は電話に出た。
「丁度良かったわ、今帰ったところなの。色々とバタバタしちゃって、不規則な毎日よ。紅茶を飲もうとして今お湯を沸かし始めたところ。私はコーヒーより紅茶の方が好き。それもミルク・ティーだけ。ミルクをたっぷり入れて砂糖を少しだけ入れるの。レモン・ティーは好きじゃないの。コーヒーと紅茶とどっちが好き。私はコーヒーを飲むと気持ちが悪くなるの、変でしょう。お湯が沸いたので紅茶をいれてきます。コーヒーでも買ってきたらどう、一緒に飲みましょう」
 僕は公衆電話の受話器をダラリとぶら下げたままの状態にしてすぐ近くの自動販売機に缶コーヒーを買いに行った。そして大原恵子はミルク・ティーを僕は缶コーヒーを飲みながら電話でかなり長い間話をした。満月の明るい夜だったが駅前には人気が無かった。
 「一緒にミルク・ティーを飲みましょう。美味しいお店を知っているの」と言って大原恵子は電話を切った。
 次の週末に梅田の「トレビの広場」で大原恵子に会う事になった。
 阪急電車に乗って僕は梅田に行った。直接大原恵子に会うのは上海以来の二回目だった。ワン・ピース姿の彼女を見るのは初めてだったので最初は別人かと思った。中国で会った連中はみんな例外なく汚い格好をしていた。綺麗な格好で旅を始めた連中も砂埃にまみれて、風雪に打たれて、トイレの悪臭がしみ込んでみなあまり大差無かった。よく考えてみると僕はジーンズをはいて汚いワーク・シャツを着ている。中国を歩いた時と同じ格好だ。思い起こせば高校生の時からずっと同じ格好だ。バイクに乗る時も変わらない。寮と会社を歩いて往復するだけの毎日で、久々に娑婆に出て、僕の目の前に私服を着た女性が現れたのが何故か新鮮でドキドキした。
 大原恵子は予告どうり僕をミルク・ティーの美味しい店に連れて行きミルク・ティーとバター・ビスケットを注文した。僕は当然コーヒーだった。僕が大原恵子の勧めるミルク・ティーを注文しなかったので少しガッカリしたようだった。
 間近で見る大原恵子は薄化粧をしていて少し色っぽかった。よく考えたらこんなに彼女に身近で向き合ったのは初めてだ。
 大原恵子の「コーヒーと紅茶の比較文化論」を聞きながら僕は彼女が核心にワザと触れたがらないのを感じた。大原恵子は京都にある外国語大学で「中国語」を勉強している学生だ。僕の方から核心に触れるように促した。
 しばらくの沈黙があってから大原恵子が話し始めた。
「はっきり言って私は不倫をしているの。元々あの人の会社にバイトに行って、丁度会社が成長している時で、秘書みたいに働いて、前に比べたら信じられない位急激に私の生活も変わり始めたの。信じられないくらいの贅沢したわ。元々は家出同然に家を飛び出して、バイトしながら学費と生活費をなんとかしながら学校に行って熱心に勉強してたの。あの人は結婚していて子供も一人男の子がいて、それでも会社が成長期だったから家にはほとんど帰らず、江坂にマンションを買ってくれて、それでも、そんな夢みたいな生活がなかなか信じられなくって前の部屋に荷物を残しておいたの。あの人は青年実業家で誠実で素敵な人だったわ。会社が軌道に乗ったら正式に離婚して結婚しようとまで言ってくれたの。でも夢は長くは見れないの、見れないから夢っていうのよね。絶頂時にあの人の会社はあっけなく倒産したの。それからは色々なヤバイ人達から逃げ回るだけの日々。江坂のマンションも知らない間に出入りが出来なくなって私のそのままにしてあった部屋に二人で転がり込んだでしばらく隠れていたんだけれど、そこもヤバクなったので、大阪市内の安い旅館を転々としたわ。あの人は奥さんの実家からも結構お金を借りていて最後には奥さんと奥さんの両親に泣きついてある日私の前から消えたの。残された私は部屋をかわる羽目になって夜逃げしたの。家出とか夜逃げとかそんなのばっかり。でもそんなの全てひっくるめて今から思うとスリルがあって楽しかった。あの頃で私の人生は燃え尽きたのよ。でも一番悲しかったのはあんなに素敵で格好良かったあの人が段々惨めで情けない人間に落ちぶれていくのをずっとそばで見ていた事なの。ある日新しい部屋にあの人から電話がかかって来て、あれからしばらくは奥さんの実家に潜んでいたんだけれど取りあえずヤバイ人達とは話がついて逃げ回る事はしなくてよくなったのでまた大阪に出てきたって言うの。その日からまた同棲が始まったわ。あの人は家族を奥さんの実家に残して、事業の再建とは言うもののはっきり言って毎日毎日職探しよ。私はあの人の事を愛していたわ。これは過去形よ。今はあの人と一緒にいるのが苦痛で苦痛でたまらないの。それでもあの人には私が必要で、あの人は私がいないともう駄目なのよ、そのくせ奥さんとはお金が原因で離婚出来ないって言うの。私もあの人が奥さんの所に帰るのが一番だと思うの。また一からやり直せばいいのにって思うの。一週間以上何の連絡も無しで、もう帰ってこないかと思ったら急に私の所に帰ってきて、その度無様でみっともない男になっていくのよ、あの人は。問題はね、私にとってあの人が初めての人だったので、他には知らないの、だからだから抱かれるとついつい体が反応して、愛なんてこれっぽっちも存在していないのは十分承知しているんだけれども、つくづく人間の心と体は別だって思うわ。しばらくあの人が帰ってこないと体が、私の体があの人を待ち焦がれるの。私の心は正直言ってもう二度と帰って来ないでって思っているの。全然私の心はあの人を待ち焦がれていないの。完全な二重人格よ。自分でも自分の事がおかしいって思う。どうすればいいと思う。色々考えたのだけれど、そうよ新しい彼氏を作って新しい関係を作ればなんとか私の体の方もあの人の事を過去形に出来ると思うのよ。中国にもまた行きたいし、勉強もしたいわ。毎日毎日私はおばぁさんに向かって確実に突き進んで行っているの。あんな人生の終わった人といつまでもかかわっていたくないの」
 僕は黙って大原恵子の話を延々と聞いた。
 僕は何だかこんな女性がとても不潔で信じられない生物に思えてきた。悩んでいる割に大原恵子は信じられないくらい明るく話すし、少し卑屈な心で捉えたらただののろけ話にも思えてくる。この日は翌週末に映画でも見に行く事を約束して別れた。
 結局、僕は彼女の悩みを解消する事は出来なかった。
 僕はその元青年実業家に嫉妬していたのだと思う。
 大原恵子とはその後も文通が続いた。
 依然として彼女は明るく悩みながら「あの人」との関係は切れていなかった。
 卒業記念として彼女が所属しているサークルの記念演劇が大阪駅前第四ビルの地下にあるホールであった。彼女は何故か高校生の役でセーラー服を着て舞台に出てきた。思わず鼻血が出そうになぬくらい艶っぽかった。彼女が私生活でしょっている悩みとその演劇の中での爆発的に明るくて元気な役とのあまりにも大きな開きに驚いた。記念公演が終わっても僕はその驚きを処理する事が出来ず混乱したまま、楽屋の大原恵子を訪ねる事もせずにそのままそこを後にした。あの時彼女が悩める高校生の役をしていたら僕は混乱する事なく彼女に感情移入出来たかもしれない。しかし僕はただ混乱して、そして疲れていた。これから以後も大原恵子からは何通か手紙が届いたが僕は返事を書く気にはなれなかった。
 中国に行ったので次はインドに行こうと決めていた。次の年のGW(ゴールデン・ウイーク)にインドに行った。丁度、自分で究極のカレーを追い求めていた頃なので、ニュー・デリーに着いた日からガンガン本場のカレーを食べていた。三日目だったかにスリナガルに飛んだ後くらいから強烈な下痢が始まった。それからは水もロクに飲めず必死で旅を続けた。なんせ腹に力が全然入らないので踏ん張りがきかない。成田に帰り着き検疫で止められたが、飛行機で酔っただけで下痢はしていないと言い張って強引に入国した。伝染病はこうして蔓延していくのだろう。インドに行った事も体制側には隠していたので、下痢をしているなどとはとても言えなかった。下痢はインドの大地がくれた挨拶だと思い、常にニュートラルな姿勢で対峙した。連日下半身にだけ旅の余韻が残っていた。朝は何も食べないが出勤してしばらくすると決まった時間にもよおしてきて、毎日毎日律儀な下痢便君が顔を出した。それでも平静を装って一日も会社を休むことなく仕事を続けていた。辛いとは思わなかった。多分、法定伝性病に類する何かだったと思うが幸い2次感染者は出なかったのでただの下痢だったのだろう。丁度、インドで下痢が始まってから丸40日目、6月の10日の朝、恐る恐る会社のインスタント紙コップコーヒーを飲んだ。実際には糞不味いコーヒーだけれども、久々でとても美味しかった。期待半分で挑戦してみたが、予想は当たり、その日からピタリと下痢の症状は消えた。コーヒーが飲める体に戻った事に感謝した。意味も無く嬉しかった。一方で下痢君が何処へ去って嬉しい反面、少し寂しくもあった。僕の自己ベスト連続下痢日数は40日で止まってしまった。ひょっとしたら一生続くのでないかと半分覚悟はしていた。それは、それでも構わないとも思っていたし、突然ポックリ死んでしまうような下痢でもないと思った。それとも北海道で体内に宿ってしまったエキノコックス病の症状が現れたのかとも考えていた。初めて行った北海道で生水をガンガン飲んでいて、帰ってきてからそんな病気がある事を知った。
 インドの事を思い起こすとついつい関連してアフリカの事を考えてしまう。しかしアフリカという言葉から沸き立つ具体的なイメージは無く、ワクワクさせてくれる何かも無い。
 インドとアフリカの違い。例えば路傍の石。インドではそこに落ちている石一つにも意味があるが、アフリカの場合はただ石がそこに落ちている、という事実、それだけ。他には何も無い。アフリカの水を一度飲んだ者は再びアフリカに帰るという。インドでも同じ話があって、一度インドを訪れた者は、拒絶か回帰の二手しかにか分かれないないという。当時は拒絶はしなかったが、回帰する程の情熱も持たなかった。一度行った事がある、それも極短い期間だけ、という事実が横たわっているだけだ。あの国を旅しようと思うと現在の自分の置かれている環境下での時間の流れではまともには旅を続ける事は出来ない。
 連日下らない日常だったけれど、心は穏やかだった。時代は次第に泡が脹れ始めていた頃で、どいつもこいつも景気が良かった。世間では、やれ土地だ、株だ、マンションだ、金だ、と集団催眠にかかり、泡銭に囲まれているらしかったが、我々と言えば、与えられた権利は行使出来ず、対価としては絶対的に見合わない様な低賃金で働かされ、こき使われ、便所部屋で生活した。又、その低賃金分より多くを、ただで使われた。泡が飛沫となって飛び散った時にも生活は全然変わっていいなかった。ほんのわずかだけ便所部屋で過ごす時間が増えただけだった。だからカード破産したり、会社が倒産したり、マンションのローンが払えなくなった、という話を聞く度にザマァミロと思った。泡のお裾分けがなかったけれど、お世話になっていなかった分、弾けてもそんなに困らなかった。相変わらず、ただ働きの日々だったけれど、みんなの雰囲気が徐々に暗くなっていくのが楽しかった。どこかしら台風が来る前のワクワク感に似た期待があった。我々のような戦後の日本人のつまらない価値観を根底から覆すような、劇的な何かを、ずっと期待していた。ソロモン兄弟の仕掛けた罠に陥っている間、貴重な何かを沢山失った。その一つは僕の20代という貴重な時間を取り上げられた事だ。それから他にも沢山失った。
 宝塚絶望劇場の職場にはアークマンという悲惨なくらいに不器用な先輩がいた。アークマンは突き詰めるとただの屁理屈なのだが数式や公式を列挙して何でもかんでも難しく説明するのが好きだった。僕から見るとアークマンはやはり「いけ好かんやつら」の部類に入った。
 いや正直に言うとおそらく僕はアークマンの事を憎んでいるのだ、きっと。
 ある年に猫嶋という新卒の若い奴が配属になり、そのアークマンの下で新しい社会人生活を始めた。毎日毎日有り難いアークマンからの指導を受ける猫嶋を見ていると、どう考えても猫嶋が不憫に思えて仕方が無かった。
 ある夜、寮の部屋に突然猫嶋がやって来て、たわいもない話をして帰っていった。
それからしばらく同じようなパターンが続いた、そんなある夜…
「FZみたいな古いバイクより、FZRの方が速いんじゃないのですか?」
「ただ速いんが欲しいんやったら他にもいっぱいある、それに山葉なんて大嫌いなんや」
「だったら何故、FZなんですか?」
「話せば長くなる」
「それでサーキットでも走るんですか?」
「回路なんて興味ないんや、おもろーないで」
「でも吉野さんは面白いっていつも言っていますよ」
「わしゃ、おんなじところグルグルまわるの好きやないんや、飽きてくるんや」
「でもレーサーって格好いいですよ」
「バイク自体はわしもそう思う、でもちょっと回路走ってるからってすぐ偉そうにするやつがいるやろ、あんな奴らわしゃ大嫌いなんや、ほら、プロで走ってなんぼやっちゅうやつらは偉いと思う、でもカップ・ラーメンすすって貧乏こいて自称レーサー気取って、そのくせ阪神高速走るんが関の山ちゅうやつらはただの勘違いの貧乏野郎なんや、そんなやつら大嫌いなんや、あいつらほんまに金さえあればガードナーとかにも勝てる思うとるんや、笑うやろ」
「ガードナーって何ですか?」
「お前ほんまに単車乗っとんかい? ほんま何も知らんやっちゃなぁ、川面寮に二宅ちゅうやつおったやろ、あいつ今では自称レーサーで乾式クラッチやなんやとうるさいうんちく野郎やけどな、最初はつなぎの上下どっちから買えばいいんですか?なんてまじに相談しにきょったんや、それに171で釘踏んでパンクしても、ホッチキスの芯が何故道に落ちてたのか疑問なんです、とかしょっちゅう聞きにきよったんや、あいつは真性の阿呆や、ほんまの阿呆や、それでも単車から降りへん、そうやな最初はブレンボもオーリンズも知らんかったなぁ、ところで兄ちゃん何乗っとるんや?」
「勿論、ブイ、ガンマです」
「ガンマちゅうたら鈴木か? 昔、水谷勝が乗っとったやつやなぁ」
「水谷さんって友達ですか?」
「いや、鈴鹿でしか見た事ない」
「シュワンツが乗ってたんですよ」
「誰やそれ、アメ公の映画に出てくる俳優か?」
「外人のレーサーです、世界で一番速かったんです」
「阿呆ぬかせ、世界で一番速いんは北野晶夫や、その次がキング・ケニーとやっぱりスペンサーやろな、それからやっぱりガードナーや、ローソンも速かったなぁ、日本人やったらやっぱり平やなぁ」
「でもシュワンツが一番速かったんですよ」
「そうか、もうどうでもええわ、そんな事、猫嶋お前回路走らんのかい?」
「サーキットですか、一回走ってみたいんですけど、金が無いんです、吉野さんにもライセンス取れって誘われているんですけど、ガンマのローンが残っていて、全然お金ないんです」
「やめとけ、やめとけ、その内、猫嶋のガンマ、レーサーにされて、くしゃくしゃポイや、」
「やっぱりそうですか、吉野さん僕より金ないみたいですねぇ、いつも貧乏人の僕にお金借りにくるんですよ、この前即席ラーメンも全部食べられました」
「そやろ、あいつはあんなやつなんや、ちょっとでも甘い顔見せたら、骨の随までしゃぶるんや、それで豚の相撲取りみたいに、ごっっあんです、の一言で終わりや、何でもそうなんや、わしかてえらい目におうた、まぁ話せば長くなるんでせんけどなぁ、ところで話ってなんや、やっぱりアークマンの事か?」
「そうなんですよ、わかります? やっぱり」
「いつもなぁ、いつも猫嶋の事えらいなぁって見てるんや、わしやったら2週間でもめとる、アークマンをシバイて終わりや、でも猫嶋はほんまにえらいのう、感心するわ」
「そんなに言ってもらえれば嬉しいです、それで話と言うのは、」
「何や、もう会社やめるんかいなぁ?」
「えっ、もうそんな事までわかるんですか?」
「顔に書いとる、それにわしに何言うてほしいんや、どないしたいんや?」
「会社に恨みは無いのですが、例え配置を変えてもらっても、社内でいると顔を合わすでしょう、もう顔も見たくないんですよ、実際」
「ほな、わしゃ止めへん、辞め、辞め、こんな糞会社、早いとこ辞めてまえ、わしも毎日いつ辞めたろか、そればっかり考えてるんや」
「そうなんですか、じゃぁ一緒に辞めましょう」
「辞められるんやったらそうしたい、でも今は辞めん」
「ローンか何かあるんですか?」
「阿呆、お前と一緒にすな、まぁ話せば長くなるからせんけど」
「さっきから、そればっかりですね、ちょっとくらい話を聞かせて下さいよ」
「ほんま、話せば長くなるからせん、でもわしやったら会社辞めるんやったらあんまり他人に相談したりせんとズバッと辞めるけどなぁ、ほんまに辞めるんやったら、ひよっとしたらわしに止めてもらいたいんかい? 残念ながらわしゃ部長と違うて止めへんで、止めても本人が決めとったらどないもこないもならへんのや、部長はいつもわしにまかせ、わしがなんとかするちゅうていつつも話をよけいゴチャゴチャにして、挙げ句には揉めるだけ揉めて100パーセント辞めていく、あのおっさんが部長になってから一番人がよーけ辞めとる」
「それは本当ですか?」
「ほんまや、引き留めたためしがないんや、成功例零や、辞める方も気分悪くして辞めていく、元々会社とか仕事が嫌いで辞めるちゅうとんのやから、気持ちよう辞めさしゃええんや、それを会社側がごねるから悪いんや、円満退社にせんぞ、解雇にするぞ、とか脅すんや、それでズルズル半年とか1年とか延びるんや、その後の人生設計全部パーや、えらい迷惑や、そやから辞めるんやったら交渉に応じたらあかん、絶対部長が出てくるから、きっぱりと次の会社に出社する日が決まっているからすぐに辞める言うんやで、辞めたらどないするんや?」
「フリータです」
「そうか、決まってへんのか、ほな田舎へ帰って地元の会社へ就職して、親の面倒見るとか言うとけや、適当な会社の名前言うとけ、高校の時の連れとか働いとるやろ」
「わかりました」
 翌日、猫嶋は「会社に恨みはありません」という一言を残して会社を辞めた。
 宝塚絶望工場で受けた一番の衝撃と言えばある人が突然結婚してしまった事だ。僕がいた職場では冠婚葬祭時にはお祝いや香典を幹事が一口千円で徴収した。ある日突然机の上に回覧されてきたお祝いを集めるお知らせを見て愕然とした。五つ年上のその先輩の事を僕は内心人生の心の師と定めて陰ながら注目していたのである。結婚式の二次会に誘われたが僕は断固として拒否した。師匠が俗物みたいに結婚するのをどうしても認めたくなかった。だから「おめでとうございます」なんていう社交辞令は一言も発さなかった。
 当時仲の良かった女の子と週末に三宮で待ち合わせして、映画を見てから点心を食べに行った。
「元気ないわねぇ、どうしたの?」
「平さんが結婚してしまうんだ、それも明日この神戸で。あの人が結婚するなんて信じられない。出来るものなら結婚をぶっつぶしたいんだ」
「そんなに好きだったの? その人の事が」
「好きと言うか、何というか」
「じゃぁ、その人が結婚するって言うんで私とこうしてここでシューマイ食べているの? その人にふられたから今度は私ってわけぇ?」
「違うよ」
「違わない。二股かけてたのぉ?」
「あのね、平さんは会社の先輩で男の人」
「じゃぁ、同性愛ぃ? ホモォ? ヤダァ!!」
「馬鹿たれ」
「理解出来ない。何で男の先輩が結婚するのにあなたが落ち込むのよぉ。馬鹿はあなたよぉ」
彼女が何と言おうと僕は胸の奥に何かがつかえた様な気がして体が重かった。重力が地球の何倍もあるような別の惑星を歩いている様な気がした。
 西宮北口に「流浪屋」という名の無国籍料理屋があって、そこでは水餃子や焼きめしを主たる料理として、世界の一部のビールが飲めた。料理は出来るものだけを提供してビールは入手可能なものだけをメニューに載せているだけで、料理も飲み物も、何でもかんでも一通り揃えると言った努力はしていなかった。壁には曼陀羅や中国の地図が掲げてあって、自分の寮の部屋と同じ匂いを感じるとる事が出来た。店主も変わった人で興味をそそられた。最初に行った時に隣の座った若い学生風のカップルが料理を一品しか注文しなかった。すると厨房から店主が出てきて「三品以上注文してくれますぅ、ポツポツ、ポツポツおじぃちゃんのしょーべんみたいに頼まれてもメンドーくさいんで」とぶっきらぼうにそのカップルに言った。その若いカップルはその一言にビビってしまって五品を追加注文した。細身のそのカップルは勿論かなりの量の料理を残して、勘定して出て行こうとした。するとまたもや店主が出てきて「おいっ、最近の若いもんは自分の食べる量もわからんのかぁ、残すんやったら頼むな、作った人の事を考えた事があるんかぁ、何も料理だけやないぞ、百姓や身を捧げた動物、ここまでそれを運んできてくれた人、そんな色々な人の手を渡ってここまでやって来たんやぁ、そんな事考えた事あるんかぁ、どうせピアかなんかで見て姉ちゃん口説くのんが目的で、下心一杯でちんちん大きゅうして来たんちゃうんかぁ、ええっ、どうや。それになぁ、もっと気に入らんのが何でも金出しゃぁ済むと思いやがって、どうせ親のすねかじりやろぉ、ええ身分やのぉ。てめぇで稼いだ金やったらこんなに残すかぁ、金はええからすぐにこの店から出て行け、そして二度と来んな。それから兄ちゃんの学校の連れにもよう言うとけ、てめぇで稼いだ金しか持って来んなぁ」
 そのカップルは無言で頭だけを下げて店から出ていった。
 店主は残った客に「ちゅうとこですわぁ」と一言いって厨房に消えた。 
 僕はこの流浪屋で親しい連中と密談するのが好きだった。友達の彼女と二人っきりで籠もって相談に乗った。あの頃の僕は他人の悩みを抱え込む事が多かった。
 大豊真弓という女の子がいて、彼女は僕の友達の万次と交際を始めたばかりだった。僕は大豊真弓の事をお豊ちゃんと呼んでいた。問題はそのお豊ちゃんには万次の前に交際していた男がいて、案の定というか女一人男二人の三角関係だった。万次の前の男にお豊ちゃんの方から一方的に交際打ち切りを宣言して、万次を口説いて万次と交際するようになったという。問題はお豊ちゃんの前の男が東京に転勤になって、その後でお豊ちゃんと万次の間に肉体関係が成立してから発生したと言う。前の男もまだお豊ちゃんに未練があり、万次も勿論お豊ちゃんの事が好きだ。前の男との事も万次との事もお豊ちゃんの方から言い出したのに、お豊ちゃんはすぐにでも東京に行って前の男に会いたいと言う。僕は大原恵子の例もあるので、しもつながりがこの問題の原因かどうかをお豊ちゃんに聞いてみた。やはりそうだった。万次との性交より前の男との性交の方がいいのだと言う。僕はムチムチでプリプリのお豊ちゃんに好意を寄せていたが万次との友情を守るためにあえてお豊ちゃんを口説かない事をお豊ちゃんに宣言した。「あら、そんなの関係ないのに」と、お豊ちゃんは言っていた。僕はこれ以上この問題が複雑になるのを避けたかったのだ。
 お豊ちゃんは悩みに悩んである日全てを万次に告白し、「自分を確かめてくる」と言って新幹線に飛び乗り東京の前の男の所に行ったりもした。万次は何がなんだがさっぱりわからないと言う。お豊ちゃんの行動に翻弄されるだけだと言う。
 相変わらずこの問題はこれ以上進まなかったが「流浪屋」に籠もって色々とお豊ちゃんと話をした。今から思えば友情のためだ何だときれい事を言わずにお豊ちゃんを口説けば良かったと思っている。
 ある時を境にお豊ちゃんとも会う機会が減ってきて、彼女との関係は自然に消滅した。その頃万次に新しい彼女が出来たと聞いたので、万次に事情を聞いてみた。お豊ちゃんには新しい男ができ、前の男と万次に一方的にさよらなを言って関係を清算したらしい。
 僕は相変わらず宝塚絶望劇場では仮面をつけて演技をする毎日だったが、特に僕より歳が一回り違うバル吉という小心者で卑屈で保身第一の嫌なやつと一緒に仕事をする時は気分が悪かった。バル吉の持論は「無能でも何でも先輩を立てなければならない」というもので、いまだに体育会系のノリで学生気分が抜けていなかった。「僕らも会社へ入った若い時はそうしてきた」から、それを我々にもしろという。バル吉は完全に人生を勘違いしている。
 バル吉がバブルの恩恵で課長になる前の夜、突然目の前に現れてこう言った。
「明日からはお前の上司になるから何でもちゃんと言う事聞いてや」
何を偉そうに根回ししにくるんやこのオッサンは、
「会社が認めても僕は認めてませんから、まぁ胃に穴をあけん程度に頑張って下さいね、これからは組合はついてませんから」と、僕は冷たく言った。
「減らず口の減らんやっちゃ」と捨てぜりふを残してバル吉は去っていった。
 
 バル吉は又の名をセクハラ課長バル吉と呼ばれていて、特に女子社員から嫌われていた。部下の管理能力は無いわ、自己の管理能力は無いわで、課長としては本当に無能な奴だった。バル吉が課長になってから僕の全ての新しい試みは全て反対されて潰された。バル吉は僕の案に対して総論賛成で、各論断固反対で全て拒否した。「前例がない」との一言であくまでもバル吉は責任を取らされる事態が発生するのをひどく怯えていた。そのくせ従来の業務でも「僕、聞いてへん」の一言で無責任に逃げまわった。「聞いてない」というせりふは課長職としての職務怠慢を自ら認めた事になるのにそんな簡単な事もバル吉はわかっていなかった。あいつは人間的に見ても器の小さい奴で、ほとんど化石のサラリーマンだった。
 そのころ僕は「裸の課長」というたを作った。残念ながら曲はまだない。
 書類を持っちゃあウロウロ
 はんこを持っちゃあウロウロ
 あいつはいつもウロウロ
 電話を取ればオロオロ
 相談すればオロオロ
 あいつはいつもオロオロ
 腰を上げれば、ヨロヨロ
 自分の意見が無い、考えが無い、何も一人で出来ない。
 失敗すれば他人のせい。
 毎日毎日、何かに怯えてウロウロ、オロオロ、ヨロヨロ。
 毎日毎日、何かに怯えてウロウロ、オロオロ、ヨロヨロ。
 毎日毎日、何かに怯えてウロウロ、オロオロ、ヨロヨロ。 
 リストラで若い奴らを追い出して、
 自分一人が課長だ何だとイバッテル。
 裸の愚かな課長は今日も一人で、
 ウロウロしてる、
 オロオロしてる、
 ヨロヨロしてる、
 そんな無能な課長はみんなの嫌われ者
 自己嫌悪の塊のくせに、
 それでも自分を正当化する。 
 お前なんてロクなもんじゃねぇ。
 裸の愚かな課長
 裸の愚かな課長
 裸の愚かな課長
 裸の愚かな課長
 裸の愚かな課長
 課長、課長、課長、課長、万年課長。
 自分一人でズーットイバッテやがれ。
 万年裸の愚かな課長。
 僕と田中裕子との文通は相変わらず続いていた。彼女は将来について確定する事が出来ず、かつ就職もせずに大学院に進んでいた。彼女は大阪の外国語大学で中国文学を専攻していた。彼女は日常会話なら問題なく中国語の普通話を話した。横で聞いていて惚れ惚れするくらい美しい発音だったし、そんな時の彼女の横顔を見ているのは何故かしら心ときめくものがあった。しかしあの時の彼女とは正反対に彼女からの手紙はいつもどこかしら重苦しい雰囲気が漂って来て、読後はいつも重力が増した様に感じた。
  「前略、お元気ですか? 私は最近少しというか、かなり疲れています。
  
  本来ならばこれからする話はあなたに聞いてもらう筋合いのものではないので
  すが、他に聞いてもらえる人も今はいないので迷惑を承知の上でこうして手紙を
  書いています。はっきり言って今男性不信に陥っています。かと言って同性愛者
  でも勿論ないのですが、男の持つ欲望というか権力欲というか、エゴむき出しの、
  そんな欲望の塊に辟易している今日この頃です。唐突にあなたに対して男性不信
  と言っても意味不明だと思います。今だに自分の将来について明確な計画が出来
  ていませんが、もう少し中国文学に関する知識を深めたいと思って院に進んだ事
  はかなり前の手紙に書いたとうりです。私の今最大の悩みと言えば、大学院の担
  当教授の事なのです。顔を見るだけで吐き気をもよおすくらいにもう二度と見た
  くない人間なのですが、今までの事を考えると勿体なくて我慢して教授のゼミに
  通っています。私のゼミには私の他に一人女子院生がいたのですが、先月急に彼
  女は学校を辞めてしまいました。その時は理由がわからなかったのですが、しば
  らくしてその理由がすぐにわかりました。私のゼミの教授はセクハラ教授だった
  のです。教授は男子学生にはあまり関与せず、なるべく早く帰るようにしむける
  のですが、私には色々な理由をつけてなるべく帰さないようにして、私と二人き
  りの時間をこじつけてでも作ります。しつこく食事に誘ったり、教授室のソファ
  ーでいきなり隣に座り込み、髪や肩を触り始めたかと思うと、そのうち抱きつか
  れたりもしました。勿論嫌なので抵抗しますが、教授は信じられないくらい卑劣
  な言葉の数々を浴びせてきます。私が嫌っているのをわかった上で嫌がらせをし
  て、私の嫌がる姿を見て楽しんでいるのです。はっきり言ってただの変態なので
  すが、将来の自分の明確な姿を見出せない以上我慢するしかないと思い毎日毎日
  憂鬱な日々を送っています。
  切羽詰まって事務局のある親しい人に、先日この事を相談しました。しかし、あ
  の教授がそんな人とは信じられない、とにかく詳しく調べてから事務局でなんと
  するからこの事は公にしないでくれ、と言うのです。大学から院に進む時もその
  人に色々と相談に乗ってもらっていたので、これでなんとかなると思って安心し
  ていました。しかし期待は見事に裏切られ、事もあろうに私がこんな事で騒ぎ立
  てようとしているとその教授に忠告と言うか密告したのです。それからの教授は
  前にも増して嫌がらせをしてきました。君は僕にこうされるのがとても嫌だろう。
  僕はそんな嫌で嫌でたまらない君の顔を見ているととても心が安らぐんだ。でも
  たまには彼氏にしてもらっている時みたいに喜んだらどうなんだ。どうあがいて
  も君は僕の言いなりにならないと将来がない事くらいわかっているだろう、とま
  で言いました。ある日とうとう私は熱を出して寝込んでしまいました。それでし
  ばらくゼミに出られませんでした。その間にも、私の服装や私生活にとことん干
  渉する手紙を送りつけてきました。その後の週末には必ず電話がかかってきて一
  緒に食事に行こうと誘います。週末家に不在の時は後日教授の部屋でネチネチと
  週末何処で何をしていたのかと説明させられます。問題は大学の旧態依然の体質
  そのものにあり、全ての権力が教授に集中していて、教授がやりたい放題なので
  す」
 僕が彼女に直接会ってこの問題について話し合おう、と手紙で提案してもこの問題が解決するまでは絶対嫌だと田中裕子は言い張る。今の自分は本当の自分ではなくて、顔もまるで他人の顔で、あの時、最初に桂林で会った時の顔とは全然違うので今は絶対に会いたくないという。電話も駄目だ。声も他人の声だ借りて来た声だと言う。僕も電話で話しをするのは苦手だ。


 晩秋の頃長い出張から寮に帰ると田中裕子からの手紙が届いていた。
  「前略、お元気ですか。私は相変わらずです。
  とうとう断り切れず、こうして学会発表のある福井県まで教授に連れて来られま
  した。勿論同じ旅館に泊まっています。と、言っても先程着いたばかりで、これ
  から地獄が始まるのですが。あなたにいつもいつも私の愚痴というか、面白くな
  い話ばかりを聞いてもらってすまない気持ちで一杯なのです。けれど、こうして
  誰かに私の事を知ってもらうというだけで私はとても心安らぐのです。これは私
  が解決しなければならない問題ですから時間をかけて自分でなんとかしたいと
  思います。いつか解決したその時には是非笑顔であなたに会いたいと思います。
  そして私がよく行く三宮の中国料理屋へ行きましょう。今からその日がとっても
  楽しみです。
  突然ですがあなたは海が好きですか。バイクに乗っているのだったら海も山も好
  きでしょうきっと。私は神戸で生まれ育ったので海の方が好きです。今度会う時
  にはバイクの後ろに乗せて下さい。私の好きな神戸の海を見に行きましょう。き
  っと、きっと近い日に実現出来ると思います」
 ずっと後になって東尋坊で短い人生を終えた田中裕子の事を知った。僕が耳にした頃は既に、学会発表の見学を兼ねたゼミ旅行先でのただの転落事故として全ての処理が終わっていた。  
 彼女が自ら命を絶ったのか、教授を道連れにしようとしたのか、教授だけを殺すつもりだったのか、教授に突き落とされたのか、本当にただの事故か、真相は謎に包まれていてわからない。
 昔から権力者や権威に驕る人々は大嫌いだったが、この田中裕子の一件でますますそんな連中に対する憎悪を深めた。   
 中学生の頃はやはりラジオが楽しみの一つで深夜放送とともに気象通報もよく聞いていた。詳しくは忘れてしまったが「大東島、西の風、風力3、快晴、木浦では北西の風、風力2、曇り、鬱陵島、北の風、風力3、雨」ってな感じで、どうして木浦だけが、「もっぽでは」と、地名の後に「では」がつくのかが不思議だった。この、大東島、木浦、鬱陵島、の三つだけはよくおぼえている。
 前回行った韓国からの帰り、釜山から下関に渡る釜関フェリーで金雪美と安恵淑という二人の釜山女子大の学生と知り合った。二人とも日本語を専攻していて美しい日本語を話した。
 その後、数ヶ月に一通という少ない頻度だったが金雪美と文通していた。
 冷え込み始めてバイクに乗るのにかなりの思い切りが必要になる頃、理由もなく鬱陵島に行きたくなった。具体的な計画を立て始めが、年末に飛び込みでフェリーの切符と取るのは難しいと判断して釜山の金雪美に電話をかけて切符の予約を頼んだ。
 電話の向こうで「切符は手配するけれど、どうして鬱陵島に行きたいの」と金雪美が何度も聞くが僕は上手く説明出来なかった。
 その頃の僕は次の旅の目的地が決まると真面目に準備を始めた。韓国に行く前はなるべく平日の昼食をうどんにして、タップリと唐辛子をまぶして舌と胃と肛門の慣らしを始める。
 梅田だったか横浜だったかは忘れたが気晴らしにハリウッドの単純な映画が見たくなって映画館に出掛けた。丁度、アーノルド・シュワルツネッガー主演の「ターミネーター2」が上映されていた。単純な僕は映画館を出てすぐにハーレー・デイビッドソンを探し始めた。翌週の木曜日、無理に定時で宝塚絶望劇場を脱出して川西市にある小森モータースへ行った。木曜日は定休日なのだが実はバイクの買い付けの日でもあった。小森のおっちゃんは丁度買い付けから店に戻ったところだった。偶然、本当に偶然だったが、AMF時代の希少なショベル・ヘッドを積んだ青い1000のスポーツ・スターがその日のおっちゃんの収穫だった。僕は他の客がやって来る前に急いで話を始めた。交渉の結果その青いスポーツ・スターは僕の所へやって来る事になった。そのスポーツ・スターはアクセル操作が難しくて、プラグはすぐにかぶるし、ブレーキは重くて効かないし、とにかく問題だらけだったがそんなものを全てのさっ引いても国産のバイクには無い魅力があった。エンジンの状態に合わせてアクセルを開けやると暴力的なトルクで加速した。国産の高性能に進化した直列4気筒のエンジンは電気モーターみたいにアクセルを握った右手に忠実に反応してくれるが、この僕のスポーツ・スターはエンジンの調子にアクセルを合わせてやらないと全然走らなかった。僕は右手に忠実な国産のバイクと、工業製品としては欠陥製品とも言えるこのミルウォーキー生まれのハーレーとを比べると、その違いは自慰行為と性交行為の違いだという結論に達した。どちらが気持ちいいかというと、それは勿論時と場合による。年末年始スポーツ・スターで走りにも行きたかったが、鬱陵島行く事にした。
 
 釜山市内で金雪美と安恵淑に再会した。その夜は金雪美の父親が会員になっているホテルのレジデンス型の部屋で二人が鍋料理を御馳走してくれた。僕はその夜、二人が帰った後でOBビールを一本飲み終わらない内に眠ってしまった。
 翌朝、僕はホテルのロビーで金雪美を待っていた。「遅れてごめんなさい、とても渋滞していたのです」とだけ、息を切らしながら金雪美は喋ると、僕の手から部屋のキーを取りフロントに行き、チェック・アウトを済ませた。ホテルの玄関の回転扉のすぐ外には安恵淑の弟が現代のクーペで待っていた。釜山の東部市外バス・ターミナルに向かう。渋滞でなかなか思う様には進めそうにないが、安恵淑の弟は度重なる車線変更を繰り返し確実に車を前に進めていく。ようやくバスターミナル着いた。いつもながら韓国のバス・ターミナルの混雑には熱を感じてしまう。浦項(ポハン)行きのチケットを手に入れると、出発間際のバスが目についた。「ありがとう」の一言だけを口にしたが金雪美はただただ心配そうな顔をするだけで、一言も発さなかった。金雪美は僕が浦項でフェリーの乗船時間に間に合うのかを、それとも全てをひっくるめたこれからの僕の旅の事を心配しているのかはわからなかった。近年、僕の事をあれだけ心配そうな顔をして見つめてくれる人がいなかったので、とても新鮮だった。一時間二十分でバスは釜山から浦項に着いた。バス・ターミナルの前でタクシー・ドライバーに交渉を開始するがどれもこれも乗車拒否する。ようやく4000ウオンで手を打つドライバーが現れた。近くとは言え2倍も料金を払うのだから文句は言わなかった。タクシーは浦項市内の広い道路を飛ばす。フェリー・ターミナルに横付けされた時は丁度十二時だった。窓口でフェリーの予約チケットを見せると、十二時に出航するからすぐに乗船しろと言う。僕が予約していた十四時出航の高速フェリーは欠航みたいだ。フェリー・ボートに乗り込みなんとか一席確保した。三十分以上遅れてこのカー・フェリーは東海に出て行った。眠ろうとするが眠れない。ゆったりとした揺れが徐々に体に浸透してくるのがわかる。昔、鑑真号で東シナ海上にて四十八時間苦しんだ記憶が甦る。楽しい事を想像しようと努力しても、揺れる度に女子学生の吐いた胃液が右に左に糸を引きながら拡散していく鑑真号の廊下しか頭に浮かばない。僕はこれに控えて朝から何も口にしておらず7時間の闘いに打ち勝ったが、周りの何人かの人は嘔吐袋を手にしたまま青白い顔に苦悶の表情で喘いでいる。オレンジ色のナトリウム灯に一部を照らし出された島は、断崖絶壁に雪が斑に降り積もり、迷彩色を施した秘密の要塞に来た様だ。桟橋で一家総出で里帰りをする肉親を待ち受ける人々の歓喜に包まれる。何人かの民泊(民宿)の客引き婆さんが絡み付いてきたが、どの民泊も不安な感じがしない分、楽しみも感じられない。僕の数歩先を歩き首だけこちらに向け何か早口でまくしたてるおばさんと雪の坂道を道洞の町に向かって行列と共に歩く。集落の奥の奥におばさんの民泊があった。軒から落ちる冷たい雪融けの氷水を顔に浴びながら土間に入る。土蔵を二つに仕切り、壁紙を貼り付けただけの部屋だ。良くも悪くもない。二泊分の現金を手渡すとおばさんは嬉々として便所を隔てた隣の本宅に帰っていった。夜だというのに暖かい。まして部屋の中に入ると、オンドルの暖かみで体が融解していく。冬の韓国を旅して一番楽しい瞬間だ。下着だけになり桃色の布団に潜り込んだ。
 夢うつつの状態からようやく逸脱して、土間へ出て氷水で顔を洗うと体が元の塊に戻った。まだ昼前だ。聖人峰を目指して道洞の町の坂道を上がって行く。やがて二股に道が分かれていたがソンインボンと矢印とともに記されてある方を迷わず選び、歩く。雪の山道を一時間歩いた。矢印にそって分岐する度に積雪が深くなり、傾斜は急になる。それでも息を切らせて登って行くと、雪だらけの段々畑からネギを掘り返しているじいさまが手を止めて「行けネェ」とだけ言った。明らかに無理だという表情だったが構わず登り続けた。
 道が無い。崩れた土壁の山小屋の脇にある庭からその先が、どう見ても道が無い。急な斜面を滑り落ちない様に引き返す。ネギの束を背負おうとしている最中のさっきのじいさまが又「そうだろう」とだけ笑いながら言った。最後に分かれた所まで引き返すが、やはり案内板はネギのじいさまの方を示している。えいやっと、その反対の道を登る事にした。
 小川を覆う小さなコンクリートの蓋に腰を下ろし、林檎を一個かじる。これは美味だ、安東の林檎だと確信する。空に吸い込まれそうな山道の視界の隅に一軒の民家が見える。人の気配を感じるが、構わず軒先を歩く。誰かが叫ぶ。数歩戻って、半開きのガラス戸越しに声のした方を見ると、左手で乳房を隠し、右手に持ったタオルで下腹部を隠した老婆が立っていた。桶に湯をはり身を清めていたのだった。「誰だ、何をしている、何処へ行く」と、そんな意味の言葉を発した。その声は嗄れていたが、どこかしら恥じらいを含み震えていたのが感じられた。僕は「ソンインボン(聖人峰)
」とだけ答えると、老婆は左手の人指し指で来た道の方を指し呟いた。やはり先程見失ったあの道だった。その時、想像していたのよりずっと立派な乳房が見て取れ、久々に懐かしく、僕の根源とも言えるそれを思い出した。僕がまだ小さな孫だった頃、田舎の祖母に風呂に入れられた記憶が重なる。あの乳を吸って育った母はやがて僕を産んだ。
 結局最初の分岐まで戻り、今度は芋洞港に向けて島の外周道路を歩く。芋洞の町から川沿いの山道を登る。中腹にボンネの滝があるらしい。振り返れば海の見える積雪の山道を、とにかく登る。滝はとうとう見つからなかった。膝まで雪にめり込みながら一歩一歩進めるが限界を感じ立ち止まる。雪の海の中で立ちすくんでいたが、下半身に痺れを感じるので引き返す。登る時には気付かなかったが、枯れた木だけが突き出した白い山々には、はっと魅せられた。何度も何度も振り返り立ち止まりながら山道を下った。靴の中は指先といわず、土踏まずといわず、濡れてふやけて歩く度にふわふわとした感じがして、足と路上の雪の間にまだパウダー・スノーが積もっているようだった。
 島の民泊の温突(オンドル)部屋でうとうとしながら新年を迎えた。
 東海に浮かぶ不気味な島で孤独を噛み締める。この寂寥感が堪らない。煩わしい思いをして他人と口をきく必要も無いし、他人の事を考える必要も無い。自分とだけ徹底的に付き合っていればいい。旅の形態が人との出会いを求めるものから自己に向き合うものへと自分の中で変わってきている。新しい人との出会いさえ面倒になってきた。
 どうして鬱陵島に行く。そう聞かれても何も答えられない。目的など何も無いのだから。何か形のわからない熱病みたいなものに触発されて歩き回っていたいだけなのだから。
 翌春、僕は相棒Kと共に自転車で済州島を一周するために新幹線と在来線と乗り継いで関釜フェリーで釜山に上陸した。金雪美と安恵淑が待っていてくれた。二人が済州市までのフェリーをアレンジしてくれた。
 済州島は外周約180kmなので一日60kmとして3日で一周する計画だった。初日100km走り、丁度島の南側の西帰浦市で泊まる。二日目60km、三日目残りの30kmを走り予定終了。精神は強気だったが肉体はついて来なかった。お尻と腰がとてつもなく痛かった。僕はこの計画を進めるにあたり2月の週末に単独で淡路島を一周した。体力の衰えは著しく、50分で10km走り10分休憩する、というのが一番無理のないペースであるというデータを得た。丁度これくらいだとトラブルさえなければ何日間でも旅が出来そうなペースだった。自転車旅が専門の人はこれの数倍のペースで旅を続けるだろうが、僕たちはビールを飲んだり、昼寝をしたり、射撃場で38口径の実弾射撃をしながら走るのでこれくらいのペースで丁度良かった。
 僕はこの頃からますます旅先で自分に向き合う時間が多くなっていった。
  「旅をしている間だが本来の自分であり、下らない日常の自分は特殊な状態であ
  る。
   いよいよ内面に向かう方向性はより強くなり今や鎖国状態にある。こんな時に
  一緒に旅をする者には堪らないだろうと思う。旅に出たのに全然解放的では無い
  のだ。
   あくまでも他人に他人を押し通す。従い、怖いものも大事なものも何も無い。
   特に気を遣う事も無いし、思いやりも無い。無口で陰気で気まずいという感情
   のかけらも無い。
   本来の寡黙な人間に戻れる旅が安らげる唯一の時間なのだ。生活するのに必要
  な言葉なんて限られている。嬉しい事を誰かに聞いて貰いたいとか、悲しい事を
  誰かに愚痴りたいとか、そんな孤独な心はもう既に何処かに行ってしまった。浮
  かれないし、落胆もしない。
   事実をありのまま見続ける事しか出来ない。感情のままに生きる事が人間らし
  いのか、そうで無いのかはわからないが、感情のままに生きる方が簡単だろう。
   民族博物館のソファーで200ウオンの紙コップ・コーヒーを飲んでしばらく眠
  っているとどこにいるのかわからなくなった。本当に飛行機に乗って行っても行
  かなくても同じなのだ。北緯や東経では気分に全然影響を与える事が出来ない。  
   これは幸か不幸か?
   これでは、行ったか、行かないかという単純なステータスだけの話になってし
  まう。本来は行った事の有無なんてどうでもいい事なのだ」
 ワクワクしたのは宝塚絶望劇場で働き初めた最初の冬に二回目の韓国に行った時が最後だ。金浦空港に降り立ち、建屋から外に出て快晴だが零下の固く乾燥した外気に触れた時だった。真冬だというのに例の匂いが鼻から入ってきて脳を刺激した。よく焼けたカストロール・オイルの匂いを嗅いだときの様に脳のどこかをキリキリと鋭く刺激する。しかしあの時のワクワクは例の匂いに慣れるにつれてすぐに消えてしまった。
 最初に行った中国で、上海の浦江飯店のドミトリーの一室に設けた青島口卑酒窟で帰りの船を待っていた時に西域方面から失意のうちに上海に帰って来た奴らが何人かいた。そいつらはウルムチとかトルファンとかで厳冬期を過ごし、それも全て西蔵(チベット)に入るために時間つぶしをしていたという。あの頃はまだ西蔵には全然興味が無かったが、中国から帰国しても西蔵は開いたり閉じたりの繰り返しでなかなか予定が立たなかった。一か八かで半年前から準備していたが、年が明けてしばらくしたら偶然開いたので単身で入る事になった。その時はほとんど死ぬ覚悟で保険にも入ったし、高山病で体がどうなってもいいやと、すごい決意と期待と共に北京に飛んだ。
 二年前にこの北京の天安門広場で「天安門事件」があったのだが、そんな匂いは何も感じられなかった。とにかく人が多くて、その多くはお上りさんで、天安門に掲げられて掲げられている毛沢東の肖像をバックに写真を撮っている。僕はかねてから暖めていた企画「天安門で店屋物」を実行するために近くの食堂に行って筆談でチャプスイとチャーハンを天安門広場に出前してもらうように頼んだ。最初食堂のオヤジは理解しなかったが最後には納得してくれた。広場に戻りしばら待っているとニヤニヤしながらオヤジが料理を運んで来てくれた。こうして相変わらず馬鹿な事ばかりしていた。
 西蔵の拉薩(ラサ)に行くには飛行機で成都に飛んで一泊しなければならなかった。成都ではする事がなかったが、麻婆豆腐の元祖「陳麻婆豆腐」が成都にあるというので行ってみた。スパイスというかあれは山椒か何かが効きすぎてやたらビールばかり飲む羽目になった。四川料理は辛いものなのだが、あの麻婆豆腐は舌が痺れて散々だった。ホテルに帰る道すがら餃子食堂があったので入ってみた。その食堂は入口で餃子を焼いていて、メニューは焼き餃子と水餃子しか無かった。あそこで食べた餃子が今まで食べた中で一番美味で、あれにかなう餃子をまだ食べた事はない。「陳麻婆豆腐」でもう駄目だ、と言うくらいに満腹になるまで食べたのにもかかわらず、その餃子は美味だったので本当に美味だったのだろう。
 翌日の早朝ホテルを出て、成都の空港から西蔵の拉薩(ラサ)に飛んだ。飛行機はあっけなくコンガ空港に着いた。単身で入域するために旅行社とは運転手とガイドを雇う契約をしていた。僕は中国製のサンタナの後部座席でどこかしら今回の旅に関する違和感を感じ始めていた。ホテルも勿論契約の中に組み込まれていて、拉薩假日飯店つまりホリデー・イン・ラサだ。僕の他に二十人近い日本人の団体が来ていた。一人の人と話をするとやはり単身で入域したかったが、どうしても不可能なので仕方無くこの団体旅行に参加したという。おかげて僕は大嫌いな日本人の観光旅行団体のラサでの観光日程を聞き出す事が出来た。僕はその団体には遭遇しないような予定を立ててガイドを通じてサンタナを走らせた。やはりポタラ宮は外から見上げるだけでも感慨深いものがあり僕は長い時間をかけて角度を変えて眺めた。
 大昭寺、八角街、ノルブリンカ、セラ寺、ゼボン寺、龍王潭公園、等の主要な所を回る。ノルブリンカの手前の人民公園では、そこで働いていたチベット族とそれを監督していた漢族の間で小競りあいが起こり、投石をしながら双方が罵り合っていた。
高山病も心配していた程の事は無かったが、明け方近く頭痛がひどくなって眠っていられなくなった。まだ夜は明けておらず、かなりの数の野犬の遠吠えが遠くに聞こえた。顔を洗ったり歯を磨き始めるとこの頭痛は自然と治った。眠っていると心臓は最低限の働きしかせず、徐々に脳に酸素が行かなくなって頭が痛くなるのです、とガイドは説明した。高山病は人によって様々な症状があるらしいが、主なものは頭痛と吐き気らしい。年間何人かの日本からの観光旅行者は高山病が原因で命を落とすらしい。
 難行苦行の末にこの土地を踏みしめてこそ価値がある、と思ってはいたが僕の限られた条件ではこれがやっとだった。少し贅沢がしてみたかったのでガイドに「鳥葬」を見たいと無理を承知で依頼した。日本人の僕ならともかく漢族のガイドとサンタナの運転主は絶対に踏み込めない領域で、ガイドが色々とかけずりまわったが実現しなかった。
 西蔵に行っても僕は何も変わる事が無かった。そりゃそうだ、そんなに簡単に人間が劇的に変わりっこない。わかってはいたけれどそんな予想を覆す、滅茶苦茶な何かに期待して、悲壮な決意で旅立ったのだ。期待していた何かをラサでは感じ取れる事が出来ず、西蔵に行った事があるという事実だけが残った。
 この西蔵に行った頃から、いわゆる「旅の氷点」が始まり、何を見ても、何を聞いても、何も感じなかった。
 何処に行っても一緒で、それはそこに行っても行かなくても同じ事だと思うようになった。内面に向かって旅を続ける以上、外面からの影響は一切受けないのだ。これなら家で寝ていても同じ事ではないか。僕の旅は内面ですっかり腐り始めていた。

 その当時、僕の仕事机があったフロアーには結構の数の女性が働いていた。ある日の席替えから十個ちゃんという女性が通路を挟んで僕の隣の席に座る事になった。彼女は僕より4歳年上でそのフロアーの女性の中でで唯一掃除の時間に雑巾掛けが出来る女性だった。当時若かったその他の女性の多くは、その掃除の時間になると湯沸かしポットを持ってほとぼりがさめるまで給湯室に籠もるのが主流だったが、彼女だけは真摯に掃除に取り組んでいた。僕は掃除に関したら他人に偉そうな事は言えない。掃除と整理整頓が一番の苦手だからだ。だから毎週金曜日の午後の掃除の時間になると行方不明になってほとんど掃除はさぼった。でも十個ちゃんが隣の席に来てからは掃除に参加する様になった。
 それまでは日曜日の午後の黄昏が憂鬱で憂鬱で、嫌で嫌でたまらなかったけれど、月曜日が楽しみになった。十個ちゃんに会えるのと、たいていの週末十個ちゃんはケーキだのクッキーだのを作り、定時後その残りをくれた。平日の夜は毎日寮に帰って食事するのが十時とか十一時だとかになるので夕方になると強烈にお腹がすいた。空きっ腹を誤魔化すのにやたらと糞不味いコーヒーを胃に流し込んだが、十個ちゃんの手作りのクッキーを頬ばってコーヒーを飲んでいると、コーヒーと紅茶の違いはあれどシンガポールのラッフルズ・ホテルで味わう午後の紅茶みたいに優雅で満たされた気分に浸れるのであった。実際には今のところ、このラッフルズ・ホテルで午後の紅茶を楽しむという夢は実現していない。
 一度だけ十個ちゃんに頼み込んで二人きりで会ってもらった。
 阪急西宮北口駅で待ち合わせして、阪急電車と近鉄電車を乗り継いで、伊勢神宮に初詣に行ったのである。
 結局その日は十個ちゃんと二人きりで十三時間時間を共有する事が出来た。
 この一回きりのデートにこぎつけるためにかなりの葛藤があり、時間をかけて慎重に行動した。
 新年が明けてすぐの定時後、しばらくして帰宅する十個ちゃんを本館から出た所で待ち受け、階段を下りてくる十個ちゃんに偶然を装いからドキドキしながら電話番号と簡単な内容を記したメモを手渡した。
 実はこの少し前に十個ちゃんは僕の恋文を読んでいる。
 恋文を記したのだが、とうとう手渡せないまま冬休みに入ったので切手を貼って大阪伊丹空港で投函しようと恋文を持ったまま旅立った。結局伊丹では出せなかったので旅先の韓国で数日間悩みながら日本の切手の上に韓国の切手を貼ってそのまま出した。あの時は韓国で何処へ行った時だろうか?そうだあれは鬱陵島に行った時だ。鬱陵島では結論を出せずに結局伽イ耶山に登って下山した時に思い余って海印寺の近くのポストに投函したのだった。深夜手紙を書いている自分と普段の自分は別の人格だと思う。朝になって読み返すと恥ずかしくて思わず手首を切ってしまいそうになるのを学生の時に体験して知っているので、手紙、特に深夜に記した恋文は絶対後になって読み返さないようにしている。それとポストに投函した後は忘れる事にしている。無責任だがあまりにも激しい自分の思い込みから一度冷静になるためにそうしている。この時も新年のすがすがしい気分と共に十個ちゃんへの恋文をついに投稿した事で妙に心も体も軽くなった。いい新年を迎えたんだ、生きていて良かったと思った。よく思い起こせば恋文を記すずっと前の秋口の頃、残業している時に僕はふと無意識の内に十個ちゃんに求婚したのだった。二人とも偶然同じタイミングで仕事の区切りがついたので横を向くと顔が合った。少し世間話をしながらその延長線上で僕にとっては核心に触れる話の展開になった。
「毎日、毎日遅くまで残ってるよね。彼女とか怒ったりしないの? ちゃんとデートしてる? 放ったらかしにしていない? 大丈夫?」
「そんないい人いたらこんな会社でずっと働いてなんかいません」
「あれれ、本当、寂しいね」
「どんな人が理想のタイプ?」
「十個ちゃんみたいな人」
「私はもうおばぁさんよ、ふふふ、それに結婚するとしても式に最低五百万はかかるわ」
「一年に無理して三万円貯めたとして、五百割る三で、百六十七年かかる」
「私、そんなに待てない。とっくに死んでるわ」
 十個ちゃんはこの頃から僕の気持ちには気付いていた筈だし、ましてや恋文を送ったり告白した後も十個ちゃんの態度は以前と何らは変わりはしなかった。僕は僕でどうすればいいのか、どうしたいのかがわからなかった。欲望も欲求もなかった。僕は自分の苦しい胸の内を打ち明けるだけで精一杯だった。確か恋文には今後の事は無計画ですが、と正直に前置きした筈だ。
 十個ちゃんはこの一回きりだが長くて密度の濃い日曜日に「あなたの気持ちはわかったわ、それでこれからどうするの? 何故、私はここにいるの? 何をどうしたいの?」と僕に答えを求めた。僕は答えが出せなかった。
 スキーに熱中していた十個ちゃんは次の週末からは毎週のように予定が入っていると言う。「一緒にスキーをしようよ」とも誘われたがゲレンデ・スキーはそのイメージが嫌で僕は自ら十個ちゃんとの唯一の接点を放棄してしまった。スキーをする以外の季節は十個ちゃんはテニスをした。僕はテニスも大嫌いだったのでこの案にも乗れなかった。十個ちゃんの異性に対する条件は「スキーとテニスを一緒に楽しめる人」と言うからこの話を発展させるのは困難であった。「趣味というのは、つまりそういうものよ」とも十個ちゃんは言っていた。
 僕は趣味が違ったって、齢の差があったって、愛があれば、と真剣に思っていたが十個ちゃんは大人で現実的だった。
 そして桃井かおりみたいに「愛があったって、現実には生活があるのよぉ、それをどう解決するつもりぃ、スキーへ行ったり、テニスをしたりするのにはお金が必要なのよぉ、愛だけじゃぁ生きていけないのよぉ」と諭された。僕は黙り込むしかなかった。
 やはり最初に行った中国での感覚は強烈で、その後も中国的なものには触れていた。中国料理と中国の新しい監督作品の映画だ。特に女優のコン・リーは好きだった。
張芸謀(チャン・イーモウ)監督作品で女優コン・リー主演の映画、「赤いコーリャン」「菊豆」「紅夢」と順番に観てきたが、「秋菊の物語」は機会が無くまだ観ていない。それに残念な事に「秋菊の物語」以後の張芸謀監督と女優コン・リーの動向が全くつかめていない。
 香港映画では断然、周潤發(チョー・ユンファ)主演のものばかりを週末にビデオを借りてきて集中的に観た。香港映画を観た後は、すなわち日曜日の夕食は近くの「玉龍飯店」に行って「唐揚げ定食」を食べた。「玉龍飯店」のメニューは大体順番に食べたが、最後に落ち着いたのは「唐揚げ定食」だった。
 旅の氷点を迎えてはいたが、次の中国行きの計画を着々と練っていた。西安を基点とする西域、つまりシルクロードと後は長春を中心とした中国東北部、いわゆる旧の満州だ。順番からいくと、長春が先で、朝鮮民主主義人民共和国との国境地帯にある長白山には是非登ってみたかった。しかし、長白山は夏の極限られた期間しか登山出来ない。夏休みは日本で過ごす事に決めていたのでこのあたりの折り合いをつけるが難しかった。中国に返還されるまでの間に香港の九龍城砦に是非行ってみたいとも考えていたが、後にあっけなく行政の力で取り壊されたと聞いた。計画だけは色々と立てたが休みがが限られていたし、十分な資金も無かった。やはり旅とは行ける時に行ける時に行っておかないと、後で後悔する事になる。


 僕はもし無人島で暮らすことなれば是非やってみたい事が一つだけある。それは丸坊主になる事だ。
 一度やってみたいのだがなかなか制約があって出来ずにいる。その理由はと言うと生まれた時から後頭部の形が左右非対称で右側だけが衝撃を受けたような感じで凹っとなっていて、その分左に寄っているのですごい形をしているからだ。だから散髪屋で髪を切ってもらうという行為はとっても恥ずかしい。極端に言うとお尻の穴を見られるより恥ずかしいと思っている。いつからか基本的に女の人に髪の毛を切ってもらっている。不思議な事にどの人も似た様なサッパリとした性格で腕の方もすごく良くて、すぐにこの奇形頭の形状を理解してなるべく理想とするカットに仕上げてくれる。どの女性とも、と言ったが今で三人目だ。僕以上にサッパリとした性格の彼女達を見ているとついつい「髪結いの亭主」というものに憧れてしまう。男としてどうだらしなく生きても「髪結いの亭主」だと許される様な気がする。一人目の時の彼女は実際に偏屈なやどろく亭主というか居候がいた。それは内縁の夫みたいな、厳密に言えば不倫の関係で、男には別に家庭があったがずっと彼女の家に居座り続けていた。そんな男に嫌気がさしたある日、彼女はとうとうその男を叩き出してしまった。その彼女を一度だけハーレーの後ろに乗せた事がある。何年か約束を延ばし延ばしにしていたのだが最後には言い逃れが出来なくなったのでタンデムして走りに行った事がある。色々な事情があって彼女は自宅を改装してそこで散髪業を営んでいた。彼女はとっても偏屈で、客もいなくがらがらで予約無くて、暇で煙草ふかしてコーヒー飲んでいても嫌な客がくると「予約で一杯なんで、申し訳ないです」と言って丁寧な言い方だが冷たく追い返す。彼女は客は自分で選ぶというか人間的に見て、それも一目見て嫌な奴は切らないのである。僕なんか何回か行ってようやく切ってもらえるようになった。それでも犬の散歩を仰せつかったりどこかの喫茶店のケーキ輸送の大役の任を与えていただいたり、それも川崎でだ。車だと駄目だと言う。あくまでもバイクで持ってきてという。彼女はコーヒーが好きでいつも美味しいコーヒーをたててくれた。色々な話をしてかなり夜も更けてから「あのぉ、そろそろ髪の毛を切ってもらいたいのですが…」と、恐る恐る切り出すと、
「なんやあんた今日は髪の毛を切りに来たんか? コーヒー飲みに来たんかと思ってた、早ょ言うわんか!」と叱られたりした。まぁ、僕は年の離れた、いやいや年の近い弟みたいな感じで長い長い過程を経てようやく、うっとおしく伸びた髪の毛を短くしてもらってすっきりするのであった。それも大体は旅立つ前夜で日頃の下らない日常から離脱するための儀式に近かった。海外へ歩きに行く前夜、川崎で長距離を走りに行く前夜、いつも同じパターンで時を過ごし、長い交渉の末切ってもらった。西蔵に旅立つ前夜は別れ際にネスカフェの大瓶に自家製の梅干しを一杯入れて持たせてくれた。


 定時後現場で立ち話をしていると、部長がやって来て「ちょっと来い」との合図で密室に引っ張っていかれた。
 部長は唐突に、
「青天の霹靂や、今日急に決まった」
「すぐにドイツに行ってくれるか」
 と、二言だけ言い放った。
 くれるか、と言うと疑問文だが、詳しく言うと、「くれるか」に小さな「あ」が付いていて、「くれるかぁ」なのである。決して部長は意志を確かめたり、選択の余地を与えたりはしてくれなかった。
 「すぐに行ってくれるか」、と言ってもドイツは入国ビザが必要なので申請してから取得するまで二ヶ月かかった。ビザを取得するまでの二ヶ月は、あっ、と言う間に過ぎた。何をしていたのかあまり良くは思い出せない。
 セクハラ課長バル吉が事業部長の所に挨拶に行こう、と言って僕を無理矢理事業部長室の前まで連れて行って自分はとっとと帰って行った。仕方がないので中に入り挨拶をした。事業部長は丁度、書籍をまとめて紐でくくって段ボール箱に詰める作業をしていた。
 僕を見ると事業部長は「おおっ、君か今度ヨーロッパに行くのは。僕も知ってのとうり来月から系列会社に行くのでこうして引っ越しの準備しているんだ。まぁ、お互いサラリーマンだから体にだけは気をつけて新天地でガンバロウじゃないか、なぁ」
と、僕に言っているのか事業部長自らに言い聞かしているのかはわからないお言葉をいただいた。これが今回の人事を決めた本人の言葉だと思うと、僕はその時片道燃料の飛行機に乗るような気がした。
 出発の前日、今回の人選をした部長の所に行って挨拶をした。すると、部長は「おお、お前にはまだ言うてへんかったけど、わしも後三ヶ月くらいで飛ぶんや。まだ内緒の話やけどな。今度お前が帰ってきたらわしはおらんわ。まぁ体にだけは気をつけて頑張れや」と、いきなり唐突に言い放つのであった。
 恐れていた事が起こった。やはり凧の糸はこうして簡単に切られてしまったのである。 
「取りあえず3年やなぁ」という部長の口約束はもう意味を持たないようになってしまった。それも出発の前の日にだ。
  
 僕は欧州に憧れたり、自腹を切ってまで欧州を旅する人々とは違って、欧州には何の興味も無く、ドイツは問題外で、特にインドとの絡みでイギリスは大嫌いだった。