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 木曜日の午後遅く、原田晴久はビルの一階にあり大通りと脇道の角に面した「カフェ・

ドュ・フロッタンフル」のおなじみの席でコーヒーを飲んでいた。彼は午後の遅い時間にこのいつもと同じ席でゆっくりコーヒーを飲むのが好きだった。彼の指定席は脇道に面して備え付けられてある一枚物の細長いテーブルの入り口から入って三つ目の椅子のあるところであった。器と皿に凝って、やたらと熱くてやたらと苦いコーヒーを我慢して飲まされた挙句に700円も取られるような喫茶店ではなくて、濃過ぎず、薄すぎず、一杯飲むのに丁度良い熱さのコーヒーで、そんなのを一杯180円で飲めるこの店が好きだった。晴久個人は特にお金対して強い執着心があるわけでもないが、原価と売価を考えるとやはり一杯700円のコーヒーを飲むのは抵抗があった。雰囲気や店の格、などと人は言うが、自分の趣味に合わない雰囲気の中でコーヒーを飲んでも晴久には美味しいとは感じられなかった。オーナーの思い入れたっぷりの調度品や趣味を押し付けられる喫茶店より、ここで一枚物の透明なガラスを通して大通りと脇道を歩いている人を何気なく眺める方が晴久には快適だった。

 春先とはいえまだ寒いが続いていた。晴久の左隣に黒いコートを着たままの女性がコーヒー・カップを持って座った。晴久はちらっと彼女の横顔を一瞥しただけだが理由も無く直感的に自分と似たある種の匂いを感じた。でも、だからと言ってその彼女との接点は何も無いし、晴久はそう感じただけで、それ以外の何者でもなかった。彼女はコーヒーを飲み終わると後ろで一つにまとめた髪を元の様にコートの中に戻して店から出て行った。彼女の名前は水島真理子という。晴久は意味も無く「後ろ髪」という言葉を思い浮かべていた。引いてみたいのは彼女の後ろで一つに束ねた黒髪なのだが。そんな取り留めもないことを考えながら呆けていると、「やぁやぁ、どうも、遅れちまって」と鈴木が入ってくるのが見えた。晴久はすぐ近くのビルの一室にある金融会社で働いている。一応その支店の責任者である。いわゆる金貸しである。本店から今の事務所の契約をうまく解除して、もう少し広い事務所に移れ、という指示が出たためになるべく早い時期に今の事務所を引き継いでくれる会社を見つけなければならない。鈴木は不動産屋を自営していて、仲介料や手数料は高くて評判だが、込み入った案件でも処理してくれるという評判を聞いて、人伝に紹介してもらった。鈴木を事務所に連れて行き案件を見せるためにここで待ち合わせしていたのである。社交辞令的に晴久は鈴木にコーヒーを勧めたが「いや、いや、早速行きましょう」とセオリー通り断った。晴久も鈴木とこの店でコーヒーを飲む関係ではなかった。待ち合わせに便利なので指定しただけだ。すぐに晴久と鈴木は雑踏に消えた。

 

 晴久の勤務先は金融業であるが、いわゆる街金である。元々の資金源は全国制覇をした広域暴力団系列の企業から出ているが、実際には他系列の組織より先駆けて設立したのと、うまく時流に乗り、その後泡沫経済が弾けてから顧客が増え、会社の自己資金も安定して増加している。また法的にも実質上も今となっては上流の組織とは点も線もつながりがほとんど切れていた。晴久は大学で別にこれと言った理由も無く経済学部に籍を置いた。同じキャンパスで理由も無く法学部の学生がなんとなく威張っているのが嫌いだった。原爆を二発落とされたら、政治も法律も憲法も変わってしまうのくらいのものなのに、どうして現行のルールを学ぶ者が偉そうにするのか不思議であった。まず生活があって、経済があって、そしてルールが存在すると、晴久は若い頃漠然と考えていた。膨らみ始めたといってもまだまだ不景気の頃ではあったが、どこかの都市銀行か証券会社に就職できたが、転勤や煩わしい社内だけの人間関係を避けて設立したばかりの金融会社に就職した。働き始めてしばらくしてから組織の上流に広域暴力団が存在することを知ったが、人種、信条、宗教、性別、職種、人種、年齢に貴賎の別はないと漠然とそう思って生きている晴久にとってあまり気にはならなった。お金にも綺麗なお金、汚れた金の別もある筈がなく、ただの流通貨幣だとしか思わなかった。また仕事を進める上で奇麗事だけですまなくなる局面を迎えてもバックがあるに越したことはないと思った。実家は父が職人数人を雇って伝統紙を家内制手工業的に作っていたが晴久が高校に上がる直前に過労死した。職人が去る前に母が見よう見真似で伝統紙の作り方を憶え生計を支えた。また短大を卒業してすぐに他所に嫁いだ5歳上の姉の嫁ぎ先が色々と資金援助をしてくれたために晴久はあまり困窮することなく大学に進むことができた。大学を卒業する直前に母親の弟である叔父に、父親の死因は仕事上の過労死ではなくて他人の借金の肩代わりの金策に追われた上での過労死だったと聞かされたのもこの業界に入る一つの理由だった。どんな高潔で高慢な人間でも金の前では無力になってしまう、そのカラクリを晴久はとことん見てやろうと思った。設立したばかりの今の会社で働くようになって金融暴力団崩れの吉田という人間に徹底して鍛えられた。吉田は晴久の反面教師で人間の奥底に秘める本当のドロドロとした汚い面を吉田自らの姿を晴久に見せた。一時はそんな吉田の薄汚さと仕事上の人間関係の匂いで嫌になって転職を考えたが建前と本音と飴と鞭を使い分ける吉田の人間臭さをなんとなく理解できる様になってからはあまり悩まず同じところで働いている。泡沫経済期の時は結構暇で、表通りの銀行や証券会社より堅実に営業をしていた。忙しくなったのは泡沫経済が弾けてしばらくしてからである。表通りでは金を借りられなくなった一般人がジャンジャン晴久のところに一時しのぎの金を借りにきた。貸した金を期日通りに返してもらっても利子収入だけでそんなに旨味はなく、なるべく返済不可能になりそうな切羽詰った客に金を貸すのが仕事であった。事業拡張に伴い、晴久は二十代の後半に吉田の勧めもあって今の支店を開設すると同時に責任者としてその支店を任されるようになった。

 晴久は長身で鼻筋もとおり、いわゆる世間ではハンサム、男前であるというのが世間一般での平均した評価だった。しかし晴久自身は人の容姿の美醜についてあまり興味がなく、特に自分の容姿など自分で見えないので心底気にしていなかった。よく酔った席で晴久の容姿についてからかわれることがあったが「たとえ真っ赤なフェラーリを運転していても自分ではその姿が見えないでしょう?それと一緒ですよ、あまり私には関係ないことです」と晴久はいつも同じことを言った。しかし中には「けっ、やっぱお前はフェラリーかよぉ、そう思ってんのか、自分で」と勘違いして露骨に悪態をつくやつがいた。その時点で晴久のその人間に対する興味は急速に冷めてしまう。晴久は目に見えるものしか信じられない人と金があれば何でも手に入ると信じ込んでいる人間には興味がなかった。勿論、お金の持つ力や魔力について十分実戦で経験した上での信条である。

 

 水曜日の夜、大手の玩具チェーン店「バトル・トイ」に朝子はいた。義理の母に仕事の帰りに「バトル・トイ」に寄るため帰宅が少し遅くなる、と出掛けに言ったが、その言葉通りに本当に朝子は「バトル・トイ」にいた。

 朝子は自分より頭一つ分背の高い女性にぶつかった。その女性は立ち止まって玩具を手にして見ているところへ不注意な朝子が一方的にぶっかったのであるが朝子は「ふん、なによ」とばかり睨み付けて去っていった。この背の高い女性は実は真理子であった。

 朝子は新婚当初、新居の完成と供に当時大流行したミツビシ・パジェロの最高級グレード車を営業マンを自宅に呼びつけて即金で買い、通勤に使っていたが、つい最近義理の母に面と向かって「あんな下品な車」と言われたのをきっかけに濃紺のアルファ・ロメオ・166 を新車で買った。朝子の義理の母は本当は「下品な嫁」と言いたかったのを湾曲させてパジェロを下品と言ったのだが、良妻賢母を演じる朝子は「わかりました」と言ってすぐに電話帳で調べてアルファの営業マンを呼びつけた。

 

 ある平日の午後、晴久がたった一人の女性社員と二人で事務所にいると、鈴木から電話がかかってきた。鈴木にしては時間がかかっているが、まぁまぁの報告で、晴久として待つしかなかった。鈴木は電話の最後の方で「一度、一献傾けましょうや」と言って電話を切った。鈴木は旧市街の外れに「寿司バー」を「これ」にやらせていると言った。「これ」と言いながら鈴木が電話の向こうで「小指」を立てているのが晴久には想像出来た。今回の一件が進むにつれていずれ鈴木の誘いを断りきれなくなるのを直感的に悟った晴久は私物の携帯電話からある女性に電話をかけた。

 街中での車の運転が嫌いな晴久は社有車を使わずに市電を継いで待ち合わせの「ハンバーガー屋」の前に行った。計算通り約束した時間の5分前にそこに着いた。彼女とは何回か待ち合わせしたが今まで彼女は一度も時間を守ったことは無かった。案の定20分近く遅れて彼女はやってきた。晴久は自分でも寛容な人間だと思っている。例え約束の相手が時間を守らなくても他人は他人、自分は自分で別に腹も立たなかった。ただ嘘をつく人間は嫌いだがそれも同じ理由で別に腹も立たなかった。約束を守らないのも嘘をつくのと同じで、その個人の理由で晴久個人とは関係無い、と。やたらと誠意無く謝る人間も多いが、彼女は悪いと思う心など微塵もなく、一言も謝らず「ねぇねぇ、今日は何処に連れて行ってくれるの?原田さんから誘ってくれるなんて珍しいんだからぁ」。若い娘は屈託が無い。二人はしばらく歩いて旧市街の外れにある鈴木が「これ」にやらせている「寿司バー」に行った。案内された席は地下にあり、元はワイン蔵であったのを改装したのがはっきりとわかるように壁が全部レンガ造りであった。それに心地よく冷えていた。席に着いて晴久は彼女の腕の派手な髑髏をあしらったブレスレットを見ていると、古風なかっちりした腕時計を見る真理子の仕草とあの黒髪を思い出していた。左腕に巻いた時計は掌側にあって、見る時には真理子は腕をいちいち反転させていた。それにいつも何故か彼女は握りこぶしだった。まぁ、指をパァーに広げて時計を見る人なんてあまりいないなぁ、やっぱりグゥに握るのが普通かぁ、と晴久は呆けていた。目の前の若い彼女の髪は薄くはなったとはいえ前回のバージョンであるオレンジが残っていて、薬殺寸前の病気の虎みたいな汚い髪をしている。色自体は「キレーィ」かもしれないが、いくら髪を綺麗な色に染めても本人自体は全然綺麗じゃないのに、と晴久は思っている。しかし、それも他人の理由によるものなので別に関心が無かった。「自分らしさを出すために髪の毛を染める」とか「個性を主張するため」とかもっともらしいことを言っているがみんながみんな髪の毛を染めたら「自分らしさ」も「個性」もへったくれも無いのでは、と晴久は思うが、そんなことは誰にも言ったことはなかった。

目の前の彼女は時計さえ持っていない。彼女の話によると「昔ビデオで観た、ガイジンのボーソー族の映画で、走りに行くときに、腕時計を捨てたのよ、それ観てから、すぐに時計ぜーんぶ捨てちゃった」そうだ。

この夜、白ワインに酔ったわけでもないが、晴久は「冷えたおにぎりが嫌いな話」等珍しく饒舌に晴久の身の上話を彼女に語った。父親が亡くなってからしばらく冷えたおにぎりしか食べられなかった時期があったからだ。それも中身は何もなく、海苔も巻かれていなかった。晴久は無意識の内に目の前の若い彼女ではなくてあの黒髪の真理子に語っているかの如くであった。普通、晴久は余計なことはあまり喋らず無口だ。

 

 木曜日の午後遅く、晴久は出先から事務所に戻る途中に「カフェ・ドュ・フロッタンフル」寄った。コーヒー・カップを受け取り窓際のいつもの席に座ろうと振り向くと真理子の後ろ姿が見えた。彼女の座る右隣がいつも晴久が座る席である。

 

「もしかしたたら」と真理子が前を向いたまま言った。

「・・・・・・・・・・・・」いきなり話しかけられて答えられない晴久。

「なーんて、自意識過剰ね、やっぱり」

晴久は立ち上がって真理子の横に立ち声をかけようとしてふと顔を上げると目の前にマユミがいた。彼女の長い髪はカラフルなレインボーで、晴久はいつも名前も知らない南国の島に生息する派手な鳥のことを思い浮かべてしまう。

「やっぱ、原田さんだったんだ。なーにやってんのこんなとこで、」

「なーにか、美味しいいモノを食べに行きましょうよ、コーヒーなんて似合わないよー

行こう、行こう」とマユミは晴久を強引に店から引っ張り出した。

無口な晴久にはお喋りな女がよくつきまとう。

 残された真理子はコーヒーを一口、口に含んで、

「ふーん、やっぱりね・・・原田と言うんだ」と呟いた。

 

 水曜日の夜、晴久の事務所に朝子がやって来た。最初にしてはまとまった額の金を貸して欲しいという。嫁ぎ先も旧家の資産家で朝子自身も金には困っていないようであったが、何も金に困っている人間だけが金を借りに来ることばかりでもないことを晴久は知っていたのと、やはり焦げ付くのを確信した晴久は無担保で朝子に現金を貸した。

 案の定、焦げ付いた。債権回収に出向く前に朝子の方から晴久を訪ねてきた。そして外に晴久を連れて夜の街を少し歩いた。裏路地に入ってすぐに朝子は晴久の腕をとってホテルに引っ張り込もうとした。晴久は瞬時にその意図を悟り絡んだ腕を解いた。

「利息ってわけじゃないけど、払えるものはなんでも払うわ、遠慮しないで」と朝子は晴久を見上げて言う。

「遠慮しなくていいのよ、こう見えても私は気まぐれで、コロコロ変わるのよ、さぁ」と言って朝子は晴久の手を引いた。

「せっかくのご好意ですが、腰が痛いので、またの機会という事で如何でしょうか?」と晴久は丁寧に言った。

しばらく沈黙していた朝子は「ふーん、ぎっくり腰じゃ仕方がないわね、じゃ、またね」と言って握っていた晴久の腕を離して夜の雑踏に消えた。

 晴久は「やれやれ」と呟くので精一杯だった。やれセクハラだアジェンダだ、と性差を表立って云々言うのがはばかられる風潮ではあったが、現実の女性は性的特徴を公衆で誇示して歩くのが晴久には理解出来なかった。性差を武器にしている人間は女性の方に多いのではないか?と晴久は思っている。

 

ある日の、混雑した昼食時、ラーメン屋で相席になって向かいに座った若い女は派手な化粧と派手な衣装の割に老婆の様に猫背で細身の長身の上半身を折り曲げてズルズル言わせながら麺を吸い込む。吸い込んでは垂れて鉢に入りそうになる髪を左手で掻き上げて、また吸い込むのを繰り返す。束ねるか、いっそ左手で髪を握っていればいいものを、律儀に鉢に左手を戻して鉢に添える。きっと幼い頃はお箸の持ち方とかそんなのを口やかましく躾られたのだと思う。髪の毛は昔の車の新車発表会で見たことのある「メタリック・パール・ホワイト」みたいな色をして綺麗だが彼女の顔付きや仕草とは整合性がなかった。やがて流行歌のメロディーをアレンジした下品な電子音が鳴った。彼女の携帯電話だった。彼女は左手で携帯電話を持ちながら髪を掻き揚げ、麺をズルズル言わせながら、電話の相手とも話しをしている。暇なくせに忙しい女だ、と晴久は思った。同時に晴久は黒髪を後で一つに束ねた真理子のことを想い出していた。真理子だったらラーメンをどう食べるか?きっと姿勢よく、それに、まぁズルズルは言わないだろう、きっと。一口毎に「ふっ」と息をかけて冷ましながら丁寧に食べるだろうな、きっと。

 

 ある日の午後、晴久の事務所にユキハルが客を連れて訪ねてきた。一通りユキハルが客とのことを晴久に紹介すると「じゃぁ」と言って去って行った。晴久が「山下さんいつもすみません」と顔を上げるともうユキハルは消えていた。ユキハルの本名は山下行春という。彼は自営の鍼灸師で、数年前に今の支店に移った当初ほとんど事務所で過ごすことになった晴久は腰痛を患い、そのため人伝にユキハルを紹介してもらって以来の仲だ。晴久はユキハルのことを最初は自分より随分齢上だと思っていたが実際はユキハルの方が二つ年下であった。山下行春はユキハル自らの言葉を借りると「発育不全」で「身体障害者」だという。ユキハルは岬の漁村で生まれたが、その実、後継者が生まれない地元の網元と妾の子として関係者全員公認の元で網元と妾の間に生まれた子供であった。出生時に勝巳という名前を付けられ網元と正妻の間で可愛がって育てられた。しかし、2歳を目前にしたある夜に原因不明の高熱にやられて生死の境を数日間彷徨い、命は助かったものの障害が残った。ユキハルの実母は乳母として網元の離れに暮らしていたがこの時既に網元との間の二人目の子供を身篭っていた。障害が残ったユキハルのことを網元は嘆いたが、二人目に期待を寄せていた。しかし真夏に生まれたのは元気な女の子だった。網元の母の意見でユキハルと実母と生まれたばかりのユキハルの妹は暇を出され、その岬の町から山を一つ越えたところの水田地帯の小さな町に引っ越した。妹は元気でユキハルの言葉によると「妹は背が高くて僕の2倍はある」という。彼女は真夏に生まれたのでセイカと名づけられた。漢字で書くと“盛夏”だそうだ。一方、貧しい家に生まれて育ったユキハルの実母は網元の家を出されてすぐに勝巳という名前をユキハル(行春)に変えた。ユキハルの説明だと「僕が障害を持って家を追い出されて一瞬味わった人生の春が去ってしまったからだ」ということになっている。ユキハルの実母はその後再婚もせず魚類の行商でユキハルとセイカを育てたらしい。ユキハルは小学校に入学したが、2年生の時に突然「なかよし学級」という特殊学級に隔離された。「みんなと一緒に遊びたかったのでしょっちゅう抜け出して普通学級に行ったけれど、すぐに先生に見付かって、なかよし学級に連れ戻されました。全然みんな仲良くないのになかよし学級という名前でその時は全然理解出来ませんでした。みんなもっと重い障害を抱えていて他人と交流することなんて無理だったのですけれどね。僕はそんなこと全然わからなかったので、駄目だ駄目だとしか言わない先生のことが嫌いでした。でも休み時間には校庭に飛び出して普通学級の友達と遊びました。まぁ一緒になって激しい運動は出来ないので校舎の影でドッチ・ボールをしている友達を眺めているだけでしたけども・・・、そんなわけで中学校にも行けなかったのですが、育ての母がよくできた人で影で色々と気にしていてくれて、鍼灸師になるための学校へ行くことを勧めてくれて、費用も出してくれたんじゃないでしょうか。そんなわけでこんな僕でも手に職が出来て自分が食べるのには困らなくなり、また少しは人様の役に立つことが出来ていると思います」

晴久はユキハルのところで診てもらっている時にざっとそんなユキハルの身の上話を聞かされたことがある。哲学書や経済書の新書を読んで、かいつまんで晴久に語ってくれたり、時には読んだばかりの「ユダヤのジョーク」を聞かせてくれたりして、内容は多岐に渡る。そんなユキハルを見ていると晴久はこのユキハルのどこに障害が潜んでいるのか?と思ってしまう。

 

 金曜日の終業時間間際に晴久が事務所で書き物をしていると、女性社員が取り付く暇も無く横に若い女の子が立っていた。ダッコちゃん?と一瞬晴久は思った。靴墨を塗った様な顔に目の周りと唇が形容し難い複雑な色に塗られていて、長めの髪はこれまた形容し難い複雑な色に塗られている。上から下まで派手な服装だが体つきはまだ幼い。晴久には中学生か高校生か判断がつかなかった。

「クソオヤジ、いや、パパに言われてきたんだ」と少女は顎を突き上げて言う。

精一杯生きている様に振舞っているが、晴久には同じ惑星の生物とは感じられなかった。

「それで要件は?またどなた様の娘さんでしょうか?」

「やっぱ、綺麗事かよ、鈴木さんちの娘さんだよ」

「ああ、鈴木さんの」と言いながら晴久はあの得体の知れない不気味な爬虫類みたいな鈴木とこの娘の共通点をなんとか探し出そうとしていた。

「パパが、本当の男ってやつを見て来い、というのできたんだ、どっか連れてってよ、そして見せてよ、本当の男ってやつをー」

「本当の男?」一瞬晴久は意味がわからず頭が真っ白になった。

 

 晴久は鈴木の娘を連れて事務所を出た。ハンバーガー屋にでも行こうと誘ったが娘は鼻で笑ったので少し歩いてたまに週末に一人で行く「ログ・オン」に行った。「ログ・オン」は「カフェ・ドュ・フロッタンフル」と同じでビルの一角にあり、大通りと脇道の角地の一階にあり、豪勢に2階をぶち抜いてやたらと高い天井には5枚羽根の白いファンがいくつかゆっくり静かに回っている。店の奥の三分の一は半階くらいの高さから上がフロアになっていて、幅の広い折り返しの無い階段で上がっていける。壁は白くてあまり無駄な装飾品は飾られていない。天井のスピーカーから静かにシャーディの歌声が流れてくる。シャーディは「No ordinary love」を歌い始めたところだった。

「ログ・オン」はカウンターも広々とした板張りの床に点在するテーブルも椅子も背が高かった。客層も静かな連中が大半でみんなささやくように語っていた。また一人客も多いので晴久は週末の午後仕事が終った後で一人で行って呆けるのが好きだった。晴久はカウンターに近いテーブルに鈴木の娘を案内した。若い男の店員が注文を取りにきた。晴久とは顔見知りだが、他の客を連れている時には一定の距離を持って接客している。

「ジュースでいいかい?」と晴久は聞いたが、鈴木の娘は睨みつけた。

「じゃあ、ジントニックを二つ」と晴久は親指と人差し指で合図をして注文した。

 

運ばれてきたジントニックを一口飲んで鈴木の娘は「なに、これ? ただの水じゃんか、けっ」と言った。晴久は普段は煙草は吸わないが飲みに行った時は雰囲気で吸う事がある。鈴木の娘ととりとめも無い話をしながらセーラムを取り出して火を点けた。

「そんなの吸ってんの」と言って鈴木の娘は顔をしかめた。

しばらくして鈴木の娘が持ってきた昔夏休みに学校のプールに通った時に使ったような透明なビニールの鞄の中で携帯電話が鳴った。神経に触れる不快な電子音だがメロディーは晴久の聴いたことのないような流行歌だった。彼女の携帯電話は一面がショッキング・ピンクで一面に小さなキティちゃんが散りばめられていた。

ボソボソと娘は小声で話していたが、晴久は気にしなかった。

 

二人が店を出てしばらく歩くと、チビ、デブ、ノッポと昔のマンガに出てきそうなトリオが現われた。どいつもこいつも体は大柄だが顔を見ると幼い。晴久にはやはり連中が中学生なのか高校生なのか判別できなかった。やはり髪の毛はどれもこれも形容し難い色に染められている、というより塗られていた。デブは意志薄弱で怠慢、ノッポはいつも世間を見下ろしていて少しは余裕がある、一番怖いのはチビでそのコンプレックスからか突然大それたことをする。歴史上でも大勢の人間を巻き込んだのはチビのナポレオンやヒトラーだった。晴久は目の前の三人を見ながら随分前にユキハルから聞かされたそんな事を思い出していた。晴久は目の前の世界が緊迫していようと、不思議と冷静で思考は何故か回り道をして別のことを考えてしまう。そんな癖がいつも余裕を失わないことにつながり金融屋として晴久に良い結果を与えていた。いきなり、チビがナイフを取り出した。刃先は濁っていていかにも切れなさそうなナイフで切られたら痛そうなのがありありとしていた。

「マジかよ」と晴久は呟いた。と同時にチビが晴久の懐に飛び込みナイフで晴久の脇腹を刺した。晴久はナイフを握ったチビの握り拳を握ろうとしたが刃先を握ってしまったために右手の掌の親指の下がザックリと割れて血が滲み出してきた。そう思うとすぐに血が吹き出してきた。何故かチビは刺した直後にナイフを握ったままその場に倒れた。残りのデブとノッポ、それに鈴木の娘は一目散に夜の雑踏に消えた。晴久は掌にしか痛みを感じていないので腹部が麻痺しているかと思った。その矢先に「晴さん」と呼ぶ声がした。横を見るとユキハルが立っていた。

「山下さんどうしたんですか、こんなところで」

「そこを通っていたら、晴さんが見えたので、車を止めて駆け付けたのですが、あっと言う間にこちらがナイフを出して、これです」と言ってユキハルはスタンガンを晴久の前に差し出した。

「少し遅くなって、申し訳ないです」

晴久にはようやく現状が飲み込めた。

「さっさ、これで」と言ってユキハルは手持ちのハンカチで晴久の掌にバンテージを巻くようにして止血した。

「晴さん、お腹はなんともないでしょう?」とユキハルが晴久を見上げて聞いた。

晴久は恐る恐る左の掌で刺された部分に触れてみるがジャケットの裾が少し破れているだけで体には何も傷がついていなかった。

「役に立ったでしょう」とユキハルに言われてようやく晴久は数日前にユキハルに勧められて腰に巻いてあるコルセットを思い出した。

「そんなのでも私の特許なんですよ、結構、その筋の方には使ってもらっています」とユキハルらしくボソボソと喋った。

「取り急ぎ、病院に行きましょう、こちらはしばらくしたら気がつくでしょう」と言って足元に倒れているチビをユキハルが顎でしゃくった。

すぐ近くの路上に濃紺のBMW735iが止めてあった。

「昔は身の丈の合わせた軽4だったのですが、運転していると嫌がらせされたりするのでこんな大きなのに換えたのですよ。するとみんな道を譲ってくれるようになりました。不思議なものでこの国では中身は全然問われません。外見ばっかりです。わたしはチンチクリンなのでこうして座布団を3枚重ねてやっと運転していますけどね」とユキハルは晴久に説明した。確かに前はクリーム色の小さなダイハツを運転していた。

ユキハルは大きなBMW735iを器用に操り裏道から裏道を抜けるとすぐに緊急病院の裏に着いた。

「こんな時は健常者じゃないのでラッキーです」とユキハルは呟いた。

「さっさぁ、行きましょう」と言うのもユキハルの癖だった。

週末の夜なのにその緊急病院は受け付け、待合も人でごった返していた。

泥酔者、交通事故、喧嘩、労働災害、賑やかな夜だった。

晴久は受け付けで必要事項を用紙に記入してソファーに座っていると、

「コーヒーでも飲んで待ちましょう」とユキハルが紙コップに入ったコーヒーを二つ持って晴久の隣に座った。

「山下さん、どうも本当にありがとうございました、助かりました。もう後は大丈夫ですので・・・。仕事に行く途中だったんですよね」と晴久は紙コップを受け取りながら言った。

「晴さん、気にしないで下さい。明日の朝行くと今電話してきたので今夜はもう上がりです。それにしてもおかしい人ばかりになりました。昔もおかしな人はいましたが楽しかったです。いまはただおかしいだけで楽しくもなんともないです」

 

やがて玄関にタクシーが横付けされて、若い男二人がフラフラになった若い女一人を病院に運び込もうとしたが、二人しても抱えることは出来ず、二人してようやく引きずってきた。ユキハル椅子に座ったまま、

「はい、患者さんはこちらに寝かせて、お連れはあちらで用紙に記入して順番を待って」と病院の職員のようにてきぱきと指示を与えた。

 

 かなりの時間待ってようやく名前を呼ばれたので立ち上がって診察室の方に歩くと、また脇の小部屋の長椅子でしばらく待たされた。ようやく診察室に入ると中には診療台が三つもあった。眼鏡をかけたクイズ番組の司会者のような人当たりのよい男の医師だった。

「今夜は賑やかですね、どうしましたか」と医師が聞く。

「階段で転んで切りました」と晴久は答える。

「じゃあ、ちょっと見せてもらいますね、ああ、これはこれは痛そうですね、切れない刃物とかで切ったりすると切れるんじゃなくって、こんな風に裂けたみたいになるんですよね」と言いながら医師は看護婦に何か専門用語で指示している。

「すぐに縫いますからしばらくお待ちください」と言って医師は隣の診察台に移った。

「原田、えっと晴久さんですね」と若い看護婦が名前を確認してから晴久を診察ベッドにうつ伏せに寝かせた。

「手を出してください。消毒します」と言って看護婦は目の前にしゃがみこんだ。

「看護婦さん、パンツが見えているですけど」と晴久が言うと、

「サービスです。気にしないで下さい」と言って看護婦は晴久の指先を握り、消毒液を床に流れ落ちるのも気にせず大量にバックリ口をあけたように裂けた傷口に流し込んだ。

一瞬手を引っ込めようとしたがしっかり指が握られたままで逃げられなかった。

掌の皮がふやけるくらい何度も何度も消毒液を流し込まれた。

その間、晴久は看護婦と二言三言馬鹿話をした。

やがて医師がやって来て、「さぁ、ちょいちょい、と縫いましょう」と言って注射器を水鉄砲のようにして液体を傷口にかけた。どうやら麻酔薬のようだ。少し痺れてきたかと思うと、医師は「握らないで下さいね、皺になりますから」と言って簡単に3針、晴久の目の前で縫った。先程の看護婦がガーゼをテープで巻きつけて、それで終わり。

「どうも」と晴久が言いかけた頃、既に医師は隣の診療台に行き「どうしましたか、今夜は賑やかですね」と別の怪我人の接客を開始していた。

清算をすませてから薬局で痛み止めをもらい、ユキハルに近くの地下鉄の駅まで送ってもらった。本当に賑やかな夜だった。どうやら最寄の球場での野球の試合が終ったらしくホームにはそれらしい人間が溢れていた。一応右手を使わないように三角巾で右腕が首から吊られているのと、結構明るいところで見るとジャケットやズボンに血がついていた。酔っ払った野球観戦帰りの連中もそんな晴久の姿を見て無意識に晴久の回りに空間を作った。晴久は虚ろにそんな目の前の情景を見ながら、頭の中では先程のパンツ姿をサービスと言った看護婦のことを想い出していた。細身の長身、比較的長い黒髪を後ろで一つに束ねて・・・晴久は自分でもまだ名前も知らない水島真理子のことを思い浮かべてしまうのが可笑しかった。

 

 休日を自宅でゆっくり過ごし、週が明けた月曜日に出勤し、事務所がある階の共同トイレで晴久はなんとか左手だけで髪を洗おうとしていた。出勤前に洗おうとしたが上手く洗えず適当に済まして出勤してきた。少し痒みを憶えたのでの再度洗おうとして共同トイレの洗面台にやってきたのであった。しかし左手だけで、かつ洗面台ではうまく洗えなかった。

「あーら、晴さん、なーにやってのよ、その格好、どうしたの彼女にやられたの?」とヨシオが頭の上から甲高い声を出した。丸坊主に近いヨシオは中学生になる前からシンナーを憶え、今でも前歯がほとんどないままで、バイクを盗んだり、ガソリン・スタンドに放火したりかなり酷い少年時代を過ごしたそうだ。ヨシオは少年院を出てからすぐに刑務所にしばらく入り、そこで男の道を師匠に仕込まれ、今ではオカマ専門に債権回収をするために晴久のところで非定期にアルバイトをしている。ヨシオは不思議とオカマに人気があって焦げた債権も難なく回収してくる。オカマは結構ケチでちゃっかりしている様だが恋に陥るととことん突っ込んでよく騙されてしまう優しい人間が多かった。

晴久のところでも結構そうしてお金に困窮したオカマの客が多かった。ヨシオは稼いだ金を貯めて前歯を治すのとモロッコに行って性転換手術を受けて正真正銘の女性になるのが夢だと面接の時に晴久に語った。

「晴さん、ちょっと待ってて、いいの買って来るから」とヨシオはすぐに消えた。しばらくするとヨシオが帰ってきて、紙袋に6本もシャンプーだの、リンスだの、そんな液体ばかりが入っていた。

「これが私のお勧め。晴さんの髪にはベスト・マッチ間違いなしよ」と言う。

 坊主頭に近いヨシオがどうしてこんな銘柄を知っているのか?と晴久には疑問だった。晴久の頭髪を丁寧に洗いながらヨシオは、

「晴さん、いい加減その気にならない? 私、歯がほとんどないでしょう?、だから素敵だって誉めてくれる人が多いのよ、結構。でも好きな人しかそんなことしないけれどね・・・。私って結構一途なのよ、こう見えても」と一人で勝手に喋った。

 晴久はまだ誰にも言っていないが、学生時代に世間を見るのと効率が良かったのであるバーでバイトをしていたことがある。白いカッター・シャツに黒いベストを着てカクテルを作ったりしていた。だから今でもアルコールに関しては一通りの知識はある。ある年の年末に打ち上げと称して店が終ってから雇われマネージャーと正規店員とバイト全員で店で飲んだ。雇われマネージャー手製のカクテルを飲まされてすぐに晴久は気を失った。晴久が次に気が付くと近くのホテルのベッドで、隣には雇われマネージャーがいびきをかいて寝ていた。二人とも丸裸だった。その雇われマネージャーは寺尾といい、寺尾アキラに何故かそっくりだった。年末から年明けにかけて毎晩のようにその寺尾アキラが「ルビーの指輪」という流行歌をテレビで歌っていた。晴久はそんな寺尾アキラを見て不思議な気分だった。何故か不快な気持ちは起こらなかった。幸いしたのは最中の記憶が晴久には何も残っておらず、想像もつかないことにあった。年が明けて関係者に聞くとみんなその雇われママネージャーの事は知っていて、界隈では有名な同性愛者であると言う。みんなはもっと早くから晴久とその雇われマネージャーは出来ていたと思っていたと言う。どうやら知らなかったのは晴久だけだったみたいだ。晴久はヨシオに髪を洗ってもらいながらそんな学生時代の事を想い出していた。

 

 後日、晴久が事務所でいると平老人がやってきた。老人は近所の楽隠居で高度成長期に機械仕掛けの玩具の設計で得た資金を運用して一財産儲けた。しかし数年前に妻が亡くなると同時に財産を整理し3人の子供達に財産を平等に分け、今は小さなマンションの一室に引越して暮らしている。そこで路上で拾ってきた病気や怪我で生い先の短い猫達と住んでいる。たまに晴久のところきて色々と昔話をして帰っていく。平老人は時には晴久のところへ客を連れてくることもあったが大体いつも昔話をして時間が来ると突然帰って行った。晴久はたまに老人に相談を持ちかけることはあったが老人は「まっ、なんじゃな、すなわち、あれは、それなんじゃな、つまり・・・」とこんな感じでやたらと代名詞のオンパレードで最初はさっぱりその意味するところがわからなかったが、なれてくると老人の意見が理解できるようになった。でもけっしてそれは押し付けがましい意見ではなくて、結局「わしの場合はこう思ってこうするが、結局はあんたが決めることじゃ」というものであった。

 ある時、老人は自分の夢を淡々と語った。老人は視力が足りなくて戦闘機に乗り損ねて死に損ねたという。川西航空機の紫電改という極地戦闘機を手に入れて自らの手で復元させて自ら飛ばせてみたいという永年の夢があったそうだ。その夢はほとんど叶う直前まで辿り着いたと言う。近海に沈んだ紫電改を手に入れてからアリゾナに修理工場と滑走路を買ってそこに紫電改を持ち込み何年もかけて復元し、ようやく初飛行という日の前夜に日系2世がやって来て、どうしても紫電改を飛ばしてくれと、という。理由は聞かなかったが、どうせわしと似たようなもんだったと思う。それが見事に飛んだ。奴は本当の戦闘機乗りだった。試験飛行の段階だったが奴は我を忘れて紫電改の美しく飛ぶ様を我々に見せ様としたのかどうかわからんが、右に旋回して高度を下げようとしてそのまま砂漠に真っ直ぐ突っ込んだ。奴も紫電改も一瞬で消えた。わしは自分では飛ばす事はできなんだが、あの美しく飛ぶ様を生きている内に見られて良かったと思っている。美しいと言えば紫電改だけでなくわしの嫁も美しかった。水っぽい絵の具で花の絵ばかりを描いとった嫁で、そりゃ別嬪で、ええおなごじゃった。その嫁の描いた絵を見てニターっとするのがわしの趣味で嫁はわしのすることにはなーんにも一言も文句言わなんだ。まぁ曲がりなりにも生活には不自由させんかったし、紫電改以外には家で嫁さん相手にちーと晩酌する程度で博打も女も買わんかったから、まぁ良く出来た亭主やったね、わしも。

 晴久はそんな悔いなく人生を黄昏ていく平老人を見ていて純粋に羨ましいと思った。

 

 日曜日、晴久は腰が痛くて自宅で寝ていた。昼前にユキハルが大柄でグラマナスな女性を連れてやってきた。最近は滅多に他人が自宅に訪ねてくることはなかったが、たまにユキハルが遊びにきたりしていた。女は「セイカです」と挨拶した。ユキハルが言ったとおりユキハルの2倍はあろうかという大柄の女性だった。彼女はユキハルの妹だった。 滅多にユキハルは晴久に頼み事をしなかったが、

「晴さん、すみませんがコーヒーを一杯お願いします。

ドラマでトヨエツが言っているように、他人がいれてくれたコーヒーは格別な味が合うるものなので・・・それに晴さんのは楽しみで・・・私など面倒なのでやっぱりインスタントなかりで、やっぱりインスタントはそれなりの味で・・・」

 どうやらユキハルは妹のセイカを晴久に紹介するために連れてきたみたいだった。セイカはプロの踊り娘で小屋から小屋へあちこちに出かけているそうで、たまたま今月はこの街の小屋に来たので兄のところへ顔を見せたそうだ。セイカは晴久に断ってから晴久が見たことも無いような細くて長い煙草を一口二口吸ってすぐに火を消した。計算だとセイカは晴久の5歳年下になる。しかしどう見ても彼女の方が大人に見えた。それは彼女が老けて見える、というのではなくて晴久の方が若く見えるからだ。晴久は時に若く見られて困る事もあった。

 

 ある日の午後遅く、事務所にいた晴久が気付くと横に鈴木が立っていた。

「原田さん、ちょっと付き合ってもらえますか」と言って鈴木に促されてついていくと階下の表通りの歩道に濃緑色の特別仕様のマセラッティ・シャマルが半分乗り上げて止まってあった。鈴木もユキハルみたいに裏道から裏道を抜けた。運転しながら差し障りのない世間話を鈴木が続けた。晴久はどちらかというと若く見られることがあったので不滅の爬虫類みたいな鈴木みたいな風貌には抵抗があったが少しは鈴木みたいな風格に憧れるところもあった。鈴木はいつも有名ブランドではないが高級そうな渋目のダブルのスーツを着こなしていた。鈴木の着るスーツもマセラッティも自分には似合いそうもないと晴久はぼんやりとそんなことを考えていた。

 案の上、鈴木に連れれて行かれた先は旧市街の外れにある鈴木が「これ」にやらせてある「寿司バー」であった。鈴木と差し向かいに座らされた晴久は勝手に鈴木が注文したものを順番に律儀に片付けた。やがて食後のコーヒーが運ばれてきた。しばらくして、鈴木は席を外すとトランクを持って現われた。鈴木が床に置いたその古くて大きなブタ皮のトランクを開けると中から色とりどりの髪の毛が飛び出すかのように出てきた。そして、晴久の目の前にポラロイド写真を3枚並べた。どれもこれも上半身裸で体に外傷はないもののみんな丸坊主だった。あのチビとデブとノッポだとわかるまで晴久にはしばらく時間がかかった。

「原田さん。これくらいで勘弁してやってもらえませんでしょうかね。あいつらは中学生で、所詮はガキのしたことなんで」と鈴木が晴久の顔を下から覗き込むようにして言った。

「これは、全部、鈴木さんが?」

「そうです、一対三、いや一対四になりますか、一応。これは他人の案件じゃないので」というと店員に合図をした。しばらくすると真っ赤な毛糸の帽子をかぶった鈴木の娘が暗がりから出てきた。顔中ミミズ腫れになっていた。でもピンクや赤や紫の色とりどりの顔は不健康なダッコちゃんとは違って生身の人間の感じがした。

鈴木の娘は「どうも」という感じで少しだけ顎をしゃくった。

「おいっ」と鈴木に言われて娘は帽子を取り、ペコリと頭を下げた。修道女の様に短くて黒い髪が見えた。晴久はどことなくそのごま塩をまぶした様な頭に色気を感じた。

「原田さん、どうかこいつを女にしてやって下さい。いやー、勿論あっちの方の意味じゃなくってね、人間としてね・・・」と鈴木が太くて低い声で言った。

「はぁ」としか晴久は返答出来なかった。

 

 ある日の午後遅く、晴久が事務所でパソコン向かって表を作成していると本店の菅野店長から電話がかかってきた。内容は思いがけないもので、吉田が隣街のホテルの喫茶室で元々顧客で懇意になった開業歯科医と談笑しているときに近くの席にいた広域暴力団の幹部めがけてヒットマンが雪崩れ込んできて、ピストルを乱射。流れ弾が吉田と開業歯科医にも当たり、開業歯科医は即死、吉田は病院に運ばれたものの、出血多量で死亡したという。

 翌日朝刊を見ると事件の事が出ていた。開業歯科医のことは実名入りで報道されていただが吉田の事は「また近くの席にいた元暴力団員も流れ弾に当たり病院に運ばれる途中出血多量で死亡した。男と事件との関係は現時点では不明」とうやむやに書かれていた。後で聞いたがどの病院も後のトラブルを避け吉田の受け入れを拒否して救急車に乗ったままたらい回しにされたのが原因だと聞かされた。晴久はまた大事な人を失ってしまい、自分の中にある欠落感が更に大きくなった気がした。しかし晴久は再び忙しい日々に埋没せざるを得なく、吉田の事も次第に記憶から遠ざかった。たまに仕事で無意識に吉田にかって教えられた手順を踏襲している自分に気付くことがあり、そんな時は不思議と晴久は孤独な気がした。

 あの一件から断り切れずに鈴木の娘が休みの日となると晴久の部屋に遊びにきた。鈴木の娘は本名を山田ハルカと言った。ハルカは鈴木の実の娘ではあるが戸籍上鈴木は正妻と子供達と縁切れておらず、ハルカは法的には母親の私生児であった。

 ハルカは休日のお昼前にやってきて晴久を叩き起こして簡単な朝食兼昼食を作るようになった。最初は抵抗していた晴久であったが、徐々に手が込み、味も晴久好みになってきたので最近は休日の楽しみの一つであることを認めざるを得なかった。食事が終るとハルカが借りてきたレンタル・ビデオを一本観る。途中でいつも晴久は寝込んでしまう。ビデオが終る直前に晴久はコーヒーを作り、そのままシャワーを浴びて目を覚まし、服を着替えてハルカと一緒にコーヒーを飲む。ハルカもビデオを観た後の晴久のいれるコーヒーが好きになっていた。晴久は水も挽いたコーヒー豆も軽量せずにいつもいい加減に作るので味加減は作る度に違っていたがそれもハルカの楽しみになっていた。ハルカはビデオの後味とその時のコーヒーの味が似ている様な錯覚に陥っている自分を知って一人で喜んでいた。ハルカと晴久は恋人同士というより歳の離れた仲の良い兄と妹という感じであった。よく聞くとハルカはまだ中学の3年生であった。よく計算してみると二人の歳は20歳以上離れていた。

 ハルカの髪は徐々にのびてもうすぐ肩にかかりそうだった。まだ荒れた髪だとはいえ元々の綺麗な黒髪に戻りつつあった。ビデオを観るハルカの横顔を見て晴久は「若い」と思った。他の言葉は出てこなかった。

 勿論晴久にはそれなりに仲の良い女友達が複数名いたが、どの彼女もたまに食事をしたり飲みに行ったりするだけで、肝心な場面になると晴久は口癖の様に「腰が痛くて」と言うと、皆勝手に勘違いしてそれ以上は要求してこなかった。きっと晴久なら他にもっと親密に交際している女性がいる筈だと思い込んでいるのもその要因であった。その為、晴久はあまり異性関係でドロドロとした関係に陥って悩むことは無かった。仕事上色々と人間のドロドロとした部分にばかり立ち入っているので私生活だけでもあまりドロドロとした世界で時間を費やしたくなかった。従い最近は部屋まで訪ねてくる異性は ハルカを除いて皆無に等しかった。たまにはビデオでなくて映画館で映画を見ようと思うがやはり腰を気にしてハルカの借りてくるビデオを自宅で観る方が晴久にとっては楽だった。晴久は社会人になりたての頃、ウインド・サーフィンに凝ってそのピークの頃にミツビシのステーション・ワゴンを運転していたが腰を痛めてあまり運転しなくなった。ある日、久々にエンジンをかけようとするとバッテリーが上がっていたのでそのままミツビシには乗らずにディーラーに整備に出してから実の母親に譲った。晴久の母親の年代で車を運転する女性は珍しいが、仕事で車を運転する必要が出来40の手習いでなんとか運転免許を取った。晴久はタイヤとエンジンが付いていてトラブルさえ発生しなければどんな車でもあまり気にしなかった。でもなるべくなら私生活では小さな車を運転したかったのであまり拘りもなく手に入れたのがルノーのツゥインゴという小さくて比較的背の高い車だ。色はフレンチ・ブルーで屋根は簡単なキャンバスなので雨が降ると結構面倒臭い。晴久には仕事で必要上縦目二灯の少し古いベンツの屋根の無いSL500が与えられている。社有車という名目ではあるが私的に好き勝手使えるが晴久は仕事でも滅多にSL500を運転することは無かった。

晴久は物心ついたときからほぼ似たような格好をしている。ジーンズに半袖のTシャツの上に長袖のキャンピング・シャツを着る。靴はトレッキング・シューズを履く。冬ともなるとシャツの上に薄いスエット・シャツを重ね着して、その上にM65というモデルの米軍払い下げのカーキ・グリーンのフィールド・コートを羽織る。ミリタリー・オタク的な意味合いはなく、一目見て色が気に入ったのと機能的であるのと、くたびれず色褪せしないためもうかれこれ20年以上真冬になると取り出してきている。真冬以外の寒い時は真っ黒一辺倒の素朴な作りの皮ジャンを羽織る。これは薄い子羊の皮で出来ていて軽くて暖かい。内側は所々破れてきてはいるが実用には差し支えなくて、これもやはり20年近く愛用している。真夏になると素肌にカラフルな単色のポロ・シャツを素肌に直接着ることもある。最初は抵抗があったが当時仲の良かった女性に勧められて試しに着てみると快適だったので、それ以後ポロ・シャツは晴久自らが気に入った色があるとまとめ買いしている。ポロ・シャツを着る事が出来るようになったのは20代の後半だ。 

 晴久はハルカと一緒に地下の駐車場に降り、ツゥインゴにハルカを乗せて日曜日の午後遅くの街に出た。

「晴久ってこんな可愛いクルマが好きだなんて知らなかった」とハルカは以外そうに喜んでいる。ハルカは20歳も齢上の晴久のことを晴久と呼び捨てにしている。別に晴久はそれに対して不快感は抱かなかった。そのかわり晴久もハルカと呼び捨てにしていた。街を抜け、湾岸線に出た。ゆっくりと走らせる晴久の横を他のクルマが何台も飛ばして抜いていった。あんなに急いでこの狭い世界を一体何処に行くのだろうか?と晴久は思う。ハルカがCDプレイヤーに見知らぬバンドの新作を入れた。晴久には最近の流行はさっぱりわからない。アルバム・タイトルなのかバンド名なのか判別がつかない。でも ハルカが遊びに来るようになってから少しずつ憶えた。まぁそんなに悪いのばかりでもない。自分が少し保守的になっているだけなのかもしれない、と晴久はそう思った。ハルカの様な若い女の子からでも学ぶことはいくらでもあるとそうも思った。ただ歌詞の内容は一回聴いただけでは聴き取れなかった。外国語なのか母国語なのか?結局はカタカナを歌っているだけだと最近気が付いた。どれもこれも歌詞に深い意味はない、とも晴久は思った。晴久にとっての憧れはやはり矢沢永吉、八代亜紀、それにテレサ・テンだった。どれも声が好きで歌詞の内容もバックの演奏に負けないようにはっきりと明瞭に歌うのが好きだった。リズムやメロディに任せていい加減に聴き取れないように歌っているのは誤魔化しみたいで晴久は嫌いだった。ハルカも逆に晴久の影響で矢沢永吉の「チャイナ・タウン」とかを口ずさむようになっていた。その日、晴久とハルカは日曜日の黄昏時を水族館でエイとクラゲを見ながらゆっくりと過ごした。

 

 やはり木曜日の午後遅く晴久は「カフェ・ドュ・フロッタンフル」のいつもの席に座ってコーヒーを飲んでいた。この日、昼食を食べ損ねた晴久は胃に染み渡るコーヒーをゆっくりと堪能していた。梅雨明け間際であったが午後から薄日が差してきてガラス越しに真夏が近いことを想像させる光を浴びて晴久は目を閉じた。しばらくそうして呆けていたが残りのコーヒーを口に含もうとして目を開け、何気なしに左横を見ると、真理子が座っていた。半分期待しながら、半分失望しながら晴久は特に木曜日の午後にここに来ていたが、今日は何の期待もなく何気なく立ち寄ったのに、横を見ると真理子がいるではないか。晴久は再度目を閉じて、一度ゆっくり息を吸って溜息の様に口からゆっくりと吐いて、席を立ち上がり、彼女の横に立った。

「あのぅ、少し宜しいでしょうか?」と晴久はゆっくり丁寧に話しかけた。

真理子は右横を向いて晴久の顔を見上げた。

「な、なんでしょうか?」と真理子は自分でも予定外にどもって上ずった声を出したことを少し恥じた。

 二人には少し気の早いセミの声がビルの谷間から聞こえてくるような気がした。

 夏はもうすぐそこまでやって来ていて、ドアをノックする寸前だった。