"喜劇!駅前林道"単車偏屈者遍歴



英蟯虫:本田CB750FC :「ノルゥエーの林」より抜粋

 



3年生から4年生になる前の春休みに雑誌で得た情報を頼りに、宝塚市の郵便局員の官舎まで青白のCB750FCを見に行き、帰りには一円も払わずに乗って帰って来た。流石にプロの赤カブ乗りが乗っていただけあって綺麗な一台だった。友人のキムは一足早く400γを手に入れていた。

 まだまだ不景気な雰囲気が社会を覆っていて就職を決めるのは難しかったが、みんな適当に面接を受けてきて内定をもらってきた。僕も会社案内すら見ずに面接を受けに行き就職担当の教授に呼び出されて教えてもらうまで結果がどうであったか知らなかった。取りあえず卒業することが先決でその先の事は何も考えていなかった。

 前期の試験を終えた次の日にはキムと九州に向けて出発した。福岡、佐賀、長崎と名だたる峠を走り、フェリーを乗り継いで天草をはじめに島々を経由して鹿児島に上陸した。指宿スカイラインを走りフェリーで大隅半島に渡った。

 佐多岬を出発してからほとんど眠らずに、狂ったようにキムと宮崎、延岡、熊本と走り、最後の目的である「やまなみハイウエイ」を走り、由布院を抜けて別府に下りてきてからキムと分かれた。キムは国東半島を抜けて下関から中国縦貫道を走って実家まで帰るという。僕はフェリーで佐伯から四国の宿毛に渡り、足摺岬を見て高知市内に入った。高知市内ではいつも同じ銭湯に入る。ここしばらく眠ってもいなかったし勿論風呂にも入っていなかった。このまま走り続けて実家に帰る事も出来るが、せっかくの土佐だ一泊する事にした。久々に垢を落とし、サッパリしたところで夜の高知城を見上げて、さぁこれからスーパーへ寄って買い出しして桂浜で飯作って寝るべぇか、とCBの所に戻ってヘルメットを被ろうとした時に後ろから自転車に乗ったおじさんに声を掛けられた。「あんちゃん、単車か? 今晩何処へ泊まるん?」 よく日に焼けた小柄なそのおじさんを見た僕はいつもの確信犯的他人の人情依存症候群の症状が出てきたのであった。直感的に、土佐の高知、日に焼けたおじさん、漁師、大家族、カツオのたたき、と勝手に連想してしまった。あの頃の僕は食べるためなら愛想良かった。食べるためなら簡単に悪魔にだって魂を売った。「あぁ、今晩は。今日はこれから桂浜まで戻ってテント張って寝ます」と僕は答えた。するとおじさんは「おっちゃんとこへ泊まったらええ、ここからすぐ近くや」と言った。躊躇する必要は無かった。「じゃぁお世話になります」と即答しておじさんに教えられた場所にCBで先に行っておじさんを待った。そこは「はりまや橋」の近くのデパートの前だった。少し経ってからおじさんは自転車でフラフラしながらそこにやって来た。「ここから近いからついといで」というおじさんの後をCBでついて行った。カツオのタタキ、カツオのタタキ、と唾液があふれ出てきた。

 5階建てのマンションの前におじさんは自転車を止め「ここに単車止めとったらええ」と行って自転車の隣の場所を指した。えっ、漁師の民家じゃない。大家族は。まぁ、高知市内で、それも「はりまや橋」から近いから仕方ないか。

 そのマンションにはエレベータは無く、階段を歩いて最上階まで上がる。そのおじさんは寺尾聴にそっくりで、部屋の表札には偶然「寺尾」と記されてあった。「今晩は、お邪魔します」と言って上がり込んだが、「遠慮せんでええよ、わしひとりやけ、それに今日病院から出てきたばっかりや、散らかっとるで、まぁそこらへんに座りぃ」と言われたのでキッチンのテーブルにある椅子に座った。しばらく世間話をしていたが、急におっちゃんが「今日も暑かったやろ、シャワー浴び」と言い出すので、ついさっき銭湯で垢を落として、最後のパンツとシャツに着替えたばかりだが、素直に従った。シャワーを浴びているとおじさんが急に浴室の扉を開けて「パジャマよりお盆やから浴衣の方がええやろ、ここへおいとくぜょ」と言ったきりなかなか立ち去ろうとしなかった。その時点でおじさんの妙に熱い視線の意味を理解していれば良かったのだが、あまり気にしなかった。シャワーを浴びて浴衣を着てキッチンに戻る。「あんちゃん、ようにおうとるぜょ」と言っておじさんは孫でも見る様な感じで、浴衣姿の僕をジロジロと見た。孫でも見るように、と感じた時点で僕は重大な誤りを犯していた。それにしても腹減った。今日はお昼に足摺岬でクリーム・パンを囓りながら缶コーヒーを飲んで、さっき銭湯で風呂上がりにコーヒー牛乳を飲んだだけだった。つけっぱなしのテレビではNHKの9時のニュースが始まった。ATZとかいうエイズの特効薬に関するソースについてキャスターが触れた時におじさんは反応して「あんちゃん検査したかぁ」と聞くので、僕は「何の検査ですか」と聞き返した。

「陽性とか陰性とかの検査よ、エイズの検査よ、まぁおっちゃんは水商売みたいなことやっとってそれで別のところが悪ぅなって入院しとったんやけど今日からお盆やから、家へ帰ってきたんや、検査は大丈夫やった」

 この時にもまだおじさんの真意がわからなかった。

「コーヒーでもいれたるわ」と言っておじさんはネスカフェのインスタント・コーヒーをいれてくれた。とほほ、カツオのたたきが、ネスカフェかぁ。人生甘くはないわ。

でもまぁ布団の上で寝るのは半月振りなのでまぁ良しとするか。

「明日の朝御飯は卵焼きと味噌汁でええかぁ」と言うおじさんの一言でその日の夕食は諦めた。

 おじさんの隣に洗濯糊でパリパリに仕上がったカバーがかけられた真新しい布団をしいてもらって寝ることになった。布団に入った途端に空腹だったがすぐに深い眠りに落ちてしまった。

 何だか足が熱い。汗をかいている。何だろう。横を見るとおじさんの顔がすぐ横にあり、僕の右足におじさんの両足が絡んでいる。何の事かもわからないので絡まった足をふりほどき少しおじさんから離れた。

 時計を見ると夜中の1時だった。布団の端で横になって再び眠りに落ちた。

 僕は真夏の砂漠をバイクで走っていて、走っても走っても暑くて暑くて喉が乾いて全身汗だくで不快で、どうしてパリ・ダカ走っているのにこんなに不快なんだ、と思ったところで目が覚めた。今度はおじさんにすっかり抱きつかれていた。

 「何をするんですか、眠いから寝かせて下さい」と少し怒鳴っておじさんを払いのけた。おじさんはあくまでも寝返りをうっただけだと言いたげに寝たフリを続けた。

 時計を見ると2時だった。また深い眠りに落ちた。

 下半身が妙に熱い。それに妙な気分だ。ハッと気が付いた時には僕の首にはおじさんの左の腕が絡んでいて右手はパンツの上から僕のあそこを揉んでいる。

 「何するんですか、さっきから、ちょっとやめて下さい」と僕は丁寧かつ大声で怒鳴った。するとおじさんは、「わしなぁ、女も好きやけど、男の方がもっと性におうとるというか好きなんや、心配せんでも気持ちええことしたげる、すぐに気持ちよーなる、わし抜群なんやぁ、大丈夫やって、なぁ頼むわ、ちょっとだけやから辛抱してやぁ、すぐに慣れるって、なぁ頼むわ、わしのお願いや、一生のお願いや、なぁ、あんちゃんさえ気に入ったらずっとここに居てもうてもええんや、そやから頼むわ、一回だけや、一回我慢したらこっちの方がええようになるんや、なぁ、ど、何処へ行くんや?」

 僕は飛び起きてキッチンに行って浴衣を脱ぎ捨てて、ジーンズをはいてTシャツを着た。「単車が心配なんで見てきます」と言うと、おっちゃんは「わしが見てきたる」と言ってパンツ一丁でサンダル履きで階段を一目散に駆け下りて、息を切らせながらすぐに戻ってきた。

「大丈夫や、どないもあらへん、心配せんとゆっくり寝よや」と言っておじさんは布団の上に横になった。僕はキッチンのソファーに腰を下ろした。おじさんは「もうなんもせえへんからこっちに来て寝よやぁ」と繰り返し言うが僕は一切無視した。

 時計を見ると朝の3時だった。知らない間に僕はキッチンのソファーで横になって眠っていた。自然に目が覚めたので時計を見ると朝の7時だった。おじさんはパンツ一丁でかぶり布団に抱きついて絡みついたままいびきをかいて眠っていた。一宿の礼を言って立ち去るべきかどうか悩んだが、僕がもし女だったら強姦未遂と同じ事をされたのでそのまま立ち去る事にした。ヘルメットとタンク・バックを持って玄関を出た時に急に気分が悪くなって階段を駆け下りた。

 吐き気をこらえてCBを走らせる。後ろからおじさんが高速車両で追いかけて来るような錯覚に襲われて必死でCBを走らせた。この気持ちの悪さは小松島港に着いてフェリーに乗っても払拭出来ず、田舎の祖父母宅で過ごしたお盆の間中ずっと消えなかった。久々に巻き寿司や寿司の盛り合わせや鳥の唐揚げが山のように僕の目の前に出されたが気分が悪くてロクに食べられなかった。

 最終的に腕力で決着をつけるつもりではいたのでおじさんの事は怖くはなかったが、とにかく睡魔に負けていたし、おじさんのテクニックでもっと違う自分を開発されるのが怖かった。麻薬と同じで取り返しのつかない事になるのが怖かった。僕は僕の事を愛して大事にしてくれる女性を見付けるために旅をまだまだ続ける必要があるのだ。汚い中年のおじさんの欲望の餌食になるために命を賭けてCBで旅をしてしていたのではない。断じてなーいぃ。

 数日間田舎でノンビリ暮らし、再び走りたくなったので新潟まで走り小樽行きのフェリーに乗った。

 

 最後の試験も一夜漬けでごまかし、卒業研究論文もなんとかでっち上げて陰気な裏日本から脱出出来る目途がついた。卒業旅行の名目で最後の悪あがきをしようと思い立ち急遽中国へ船で渡る事にした。勿論資金は無いのでCB750FCを売り飛ばした。自転車操業よろしくとにかく目先の金が欲しかった。その金で神戸港から鑑真号に乗った。冬の東シナ海は揺れるので有名で、みんなゲロゲロの状態で僕も途中からゲロゲロで、途中で満を持して中国人船医に貰った酔い止めの薬を飲んでもすぐにそのまま口から出てくる有様だった。船は学生を中心に満室でどの場所も胃液と嘔吐物の匂いで充満していた。三日目の朝、ようやく揺れが収まったと思い甲板に出てみると船はドロの川、揚子江に入っていた。

 ようやく上海に着いたが我々はなかなか下船させてもらえなかった。船に乗り込んで来た公安にヴィザを発給してもらわなければ上陸出来なかった。この作業がなかなか進まず、書類に一ヶ所でも不備があると公安は書類を突き返し次の人間の書類の審査に入る。つき返された人間は列の後に再び並ばなくてはならない。延々と遅々として進まない行列に並び絶望的に長い時間を耐えてようやくヴィザをもらった。ゲロゲロでヘロヘロの状態で僕はこうして初めて社会主義の国に上陸した。まだ中国旅行が流行る前で詳しい情報は無かった。とにかく他の日本人旅行者からの伝聞される情報しかなかった。船とヴィザと上海でのホテルがセットになっていたので似たような境遇の人間達とボロいハイ・エースに乗せられて浦江飯店まで連れて行かれた。かって魔都と呼ばれた上海はまだまだ我々にとっては新鮮で、強烈な街の匂いは忘れられない。 

 

 
        

     


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