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英蟯虫:2003:


Date 2003/8/X.

”温泉”の様な女


「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」

  ・・・『野菊の墓』伊藤左千夫より



民さんは野菊の様な人だったかもしれないが、彼女は「温泉」の様な人であった。



真夏日の或る日の午後、五年振りとなる登場人物に邂逅すべく
いつもは翻弄されるだけの雑事を、今度は逆に細切れに
ぶった切ってバラバラに散らしてその間隙を抜け出し娑婆に出た。

こうした時の力の源泉が何処から沸いてくるのかはわからない。
慢性疲労症候群に罹ったかの如く時間を割いているだけの日常とは
また違う自分がそこにいた。

複雑に絡まった妄想と対峙しながら彼女に会うために移動した。

果して、彼女は五年後に出会うべくして出会った登場人物であったと言える。

普段は飢餓感からの反動でただダラダラと中身も吟味せずに
食欲を満たすだけの食生活を送っている連中の
醜く肥え太った肉体を見ているだけに痩身の彼女は
肉体がそこに存在するだけで新鮮であった。

デブに対して醜いという感情を抱くのは何もその肉体的な
姿形だけでなくその背景にある欲望に対する節操の無さ
というのを垣間見ることが出来るからである。

連中はのべつ幕無しに欲望の趣くまま、ただただダラダラと食べ続ける。

話を彼女のことに話を戻す。

彼女に関しては痩身と言う以外に容姿や姿形のことには敢えて触れない。
駄菓子菓子、一言だけ付け加えておこう。
彼女も別嬪さんであった。
5年前の登場人物もその前の登場人物も別嬪さんで
よく考えると別嬪さんが続いている。
それはすごく幸運なことであると思う。

まぁ姿形の美醜の判断基準はかなりの個人差はあるのだが
私の言う別嬪さんとはかなり普遍的なものである筈である。

てめぇの容姿の事は神棚に上げて他人のことを論じているのだから
人間とは全く我儘な生物であると思う。

さて、それらの容姿や姿形の話からは離れて
彼女という人間に触れてみよう。

一言で言うと彼女は「温泉」の様な人なのである。

彼女は決して強く押したり、また無闇に引いたりする人ではない。
ただその世界にゆったりと浸っていることが出来るのである。
彼女は他人に緊張を強いないし、また他人に気を遣わせない。
全てが自然で在るがままの様な存在に映る。

もし彼女と夫婦になったら『阿弥陀堂だより』で描かれていた
寺尾聡と樋口可南子の様な落ち着いた関係の夫婦
になれるのでは?と思った。


勿論彼女の全てを知った上での話ではない。
彼女とはたった数十時間を共有しただけ間柄でしかない。

彼女との関係がこの先どうなるのかはわからないが、
やはり出会うべくして出会ったのでは?と思う。
それはやはり”縁”というものであろうと思う。


遠い昔に後生掛温泉のオンドル部屋で呆けていたあの頃の気持ちを想い出した。




現時点ではこれ以上言及できないので【以下割愛】とする。


あなたにも縁があれば彼女はあなたの前にも現れるだろう。

きっと風が運んでくるだろう。噂だけではなく・・・。

 


     
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