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英蟯虫:1995:


Date 1995/X.

■伯林天使の詩■


ドイツと言う国には特に変な思い入れがある。

女性には理解してもらえないが小学生の当時は野球とプラモデルに明け暮れていた。

プラモデルはやはり田宮の1/35MMシリーズである。

今でも戦争は大嫌いだが第二次世界大戦の兵器類には興味がある。

突き詰めると単なる人殺しの道具ではあるがあの機能美に勝るモノはない。

特にドイツ軍、その中でもドイツの戦車は素晴しいと思う。

ヒトラーの名前を出すだけで色々と誤解を与えるかもしれないが
当時の少ない生活費の中から創刊されたばかりの『ヒトラー』大森実を
手に入れて貪るように読んでいた。

ヒトラーと言うとやはりミュンヘンだが第三帝国の首都であったベルリンは特別の意味を持っている。

当時は後年ベルリンに行く機会に恵まれることなど想像もつかなかった。

 



中学時代は松本零士の漫画に明け暮れ、特に戦場漫画シリーズばかりを読み返しいた。
ドイツ戦車の中でも特にキング・タイガーが好きであった。
次の絵は松本零士の漫画を模写したものである。



初めてベルリンに潜入した時の写真:1994年頃


初めてベルリンに潜入した時の写真:1994年頃:ブランデンブルグ門


初めてベルリンに潜入した時の写真:1994年頃:旧東ベルリン


旧東独の深い森の奥にはまだまだ戦場跡地の様な建物が残っていた。
(場所はポツダム近郊) 




ベルリン・ツォー付近の宿
*当時”罪作りな女”が泊っていた。
 一夜を供にしたわけではなく、ボーボーに伸びた髪を出張サービスして切ってもらった。
 場所はベルリンの動物園
 ベッドの上の赤い鞄は美容師の魂とも言える散髪鋏が入っている。


或る週末、零雑師範がウィーンに飛ぶと言うので空港でDrop Offした後ツォーに出向いた。
しかし”愛のパレード”が始まってしまい市内の交通が閉鎖されてしまい夜まで駐車場から車が出せなくなってしまった。
パレードの主宰者や参加者はいい気なモンだがこうして迷惑を被っている連中も居る事を反省せよ!
だから余計に同性愛には興味がないのだ!
権利を主張するばかりの連中は大嫌いだ!



ベルリン天使の詩


6月17日通りにはソ連の戦車T34がいくつも飾られていて
時代というのを噛み締めた。
田宮のプラモデルの中ではキング・タイガーに並んでT34の人気も高かった。
ベルリンを占拠していたソ連という国も今はもう亡い!

東ベルリンではいつも同じところで道に迷った。
テレビ塔が目印であったがいつも同じパターンで迷った。


ポツダムの宮殿と東ベルリンにあるモスク


ノルウェーの林:第4章からの抜粋   

金曜日に会社から寮に帰ってしばらくすると、電話がかかってきたと、館内放送で呼び出された。

聞き覚えのある声だったが事態はすぐには把握出来なかった。

 山内さんだ。

 僕は新しい赤い川崎を手に入れて、宝塚で新しい生活を始めていたので、人生をやり直したくらい新鮮な気持ちの毎日だった。

 

 彼女は、久々の親孝行で今一緒に有馬温泉に来ているの、明日京都の何処で何時に待ってたらいいのか、と聞く。えっ、どうやら日時まで約束していたみたいだ。正直に言って山内さんと京都でデートする約束などすっかり忘れていた。

 翌日、京都の鴨川にかかる四条大橋のたもとの中国料理屋の階上のテラスで、眼下に鴨川と四条大橋と増え始めたカップルを見下ろしながら山内さんとの話が始まった。その時はヴィム・ヴェンダースの「ベルリン天使の詩」の事なんて全然脳裏に無く、勿論まだ観ていなかったから山内さんの事なんてあまり真剣に考えていなかった。

 世間話から始まってお互いに近況報告をした。

 僕は近況報告の延長線上のような感じで、つい最近、成り行きから別の女の子と親しく付き合うようになった事を、自分の姉に報告するような感じで山内さんに伝えた。

 その直後は何が起こったのかはわからなかった。かなりの長い間の沈黙が続いた。

「はっきり言ってとっても今腹が立っているかもしれない」と山内さんは視線を遠くの方にやりながら彼女特有のボソボソと呟くような調子で言った。僕は空を見上げて黙り込むしか無かった。その後、彼女は無言でビールの中ジョッキを何杯もおかわりして飲み続けた。予約した旅館が全くの偶然で同じ所で、お互い終始無言で夜の街を鴨川から東本願寺にある旅館まで歩き続けた。彼女がもう少し若くて自分の感情を外に出すタイプの人なら彼女の態度如何で状況はもっと劇的に変わっていたかもしれないが彼女は全て自分の内面で処理しようとして長い時間をかけて彼女自身の内面を彷徨っているように見えた。

 

 山内さんは常々僕の専業主夫論に同調してくれていて、よく思い返せば「私が稼ぐわ」とも言ってくれていた。

 この専業主夫論とは、奥さんが働いて、夫は家庭に籠もって家事や育児に専念するというものだ。奥さんは仕事、仕事に明け暮れて、夫が手の込んだ夕食を準備して奥さんの帰りを待っていてもなかなか帰って来ず、ようやく日が変わって帰宅した奥さんは「課長と飲んできたの、夕食? いらない、それより水、水ちょうだい」なんて調子で酔っぱらっていて、朝は朝で奥さんより早く起きて子供の弁当作って、奥さんと子供を起こして、奥さんを見送ってから子供を幼稚園まで送って行って、それから家に戻って掃除、洗濯して買い物行かなくっちゃ、と思っていたら「もうこんな時間」、弁当の残りものでお昼ご飯をすまして、そう言えばまだ今日はコーヒー一杯も飲んでなかったわ、急いでコーヒーいれて、テレビでお昼のワイド・ショー見ながら、それが終わったら連続ドラマ、そうそう続きものの愛の劇場なんて観ながら、洗濯物乾いたかしら、なんていいながら、今度は買い物ね、今晩は何を作ろうかしら、あらいけないもうこんな時間、あの子迎えにいかなくちゃ、ってな具合の生活を僕は想像して憧れていた。男女雇用機会均等法が施行されて、男女が性別の区別なくして本当に同等で平等であるというのなら僕の様に専業主夫願望を持ってもおかしくないと思う。

 後でわかった事だが、山内さんは学校を卒業した後は大阪の病院に就職してもいいと思っていたらしい。本当に僕の専業主夫を実現させようと思っていたらしい。

 一度山内さんに聞いた事がある。「他人に精神医療を施してその時にたまる自分のストレスはどうして処理するの」と。その時の答えは「そうよ、それが問題なの。私だって疲れるし、自分の中にも解決出来ない問題があって、そんな自己矛盾をなんとか誤魔化して前に進めるには、何かが必要なのよ、何かが」

 

 

 京都で山内さんに会ってからかなり経って、僕は出張で週末を東京で過ごす機会が増えた。連絡が取れた時には何回か山内さんに会った。近況を尋ねると久々に幸せな時間を取り戻せそうだから邪魔しないでねと言ったが、次に会った時は何も返事が無かった。その次の時には他人の人生だからどうでもいいでしょう、と言われた。その次の時、僕は親しく付き合うようになった女性との事に触れ、もう別れたというか、もうどうでもよくなった、とこちらから切り出した。しばらくして山内さんは怒り出して、日曜の昼間から、あるビール会社の直営店でビールを飲んでいて、あそこは渋谷だったか新宿だったかは忘れたけれど、彼女はそんな店を色々を知っていて、そこの丸いテーブルにある、かなり腰の高いイスに座って話しをしていたのだけれども、彼女が怒った瞬間右手で思わず二人のビア・グラスを払いのけた格好になり、グラスは床に落ちて底の厚い所だけを残して粉々に砕け散った。まだ他の客は少なかったけど全員がこちらを見た。店員が飛んできて「怪我は無かったですか」と社交辞令を述べ早々にグラスをほうきでちりとりに納め、モップを持って来て床を拭いた。我々はそれらの一連の行為を一切無視し、彼女が唇を震え始めるのを正視出来なくなった僕は視線を外した。やがて彼女は重い口を開けビールのおかわりを注文した。新しく運ばれてきたビールを一口飲んでから彼女は「私は何なのよ? あなたは前に私ではなく彼女を選んだのでしょう、その彼女とうまく行っているのならまだしも、よくもまぁぬけぬけと別れたなんて事私に言いに来たわね。そんな話わざわざ聞きに来た私は何なのよ、ああ馬鹿らしい、私ってつくづく男運無いのよね、それで何がいいたいの、昔から言っているように男女間に友情は絶対成立しないの、それなのにまだあなたは事の本質を、友情だ何だ、姉だ弟だと話を誤魔化して全然の私の事も分かっていないし、女の人の事もわかっていないわ、人間の事も全然わかっていないのじゃない、きっと、よくもまぁこんな未熟な男に一時とはいえ好意を持った自分が嫌になるわ、我が人生最大の汚点よ、貴重な二十代を返してよ、返せこの時間泥棒、返さないのなら今度は私の方からお返しするわ、ずーっと、延々とねちねち、ねちねち陰湿に、陰険に、あなたのこれからの人生にお返しするわ、私決めたもの、冗談じゃないわ、やられっ放しじゃ腹の虫が収まらないもの、いいから覚悟して」と、一気に吐き出した。僕はただ黙って聞くしかなかった。

 この時以後、山内さんには二度と会ってもらえなくなった。

 失ってから初めて事の重大さに気がついた。僕はこの時から反省はするが後悔をしない人生を送れるよう努力するようになった。

 


ノルウェーの林:第5章からの抜粋   

まだ秋だというのにベルリンは氷雨が続いた。週末の朝、冷え切ったホテル「パラノイア」の部屋で僕は目覚めた。シーツもカバーもカーテンも机も窓も壁も全て冷え切っていた。僕の両脚も氷の様に冷えて切っていた。ある朝、体全体が冷え切っていてそのまま永遠にこのベットから動けなくなるのではないだろうかと思った。僕は人知れずこんな旧東独の村にあるホテル「パラノイア」の一室でメイドにも見つかる事無く永遠に冷たいままだ、そう考えると急にキツネうどんが食べたくなった。急激に空腹を感じて赤い唐辛子をまぶせるだけまぶして熱いキツネうどんが食べたくなった。しかし体は言う事を聞かず身動き一つ出来なかった。昼前にはベットから抜け出してキツネうどんを食べに行こう。市内の火薬庫の脇道を抜けたところにあるビルの地下の食堂でキツネうどんに赤い唐辛子を一杯まぶして食べよう。おいおいちょっと待てよ。ベルリンの何処に火薬庫なんてあるんだい。そうだあれはプラハだ。プラハの火薬庫の脇道を抜けたところにあるビルの地下の食堂で僕は確かにキツネうどんとカツ丼を食べたのだ。「すみません。キツネうどんとカツ丼は一緒に持って来て下さい。どちらかが早くてどちらかが遅いと困るのです。僕は同時に交互にキツネうどんとカツ丼を食べたいのです。ああ、それからカツ丼についている味噌汁はいりません。うどんの汁はなるべく熱くして下さい。火傷したって別に訴えたりしませんから」

 キツネうどんは僕にとって普遍的なもので簡単に国境を越えてやって来る。特に人恋しくなったり、珍しく風邪をひいて熱が出たり、嫌なことがあったりした時には僕はキツネうどんが食べたくなる。火傷をする位熱い汁のキツネうどんに赤い唐辛子を一杯まぶして食べる、そんな幻想を抱いてトリップしている時間の方が実際に美味しいキツネうどんを食べている時間の数万倍長い。それにそんな幻想を抱いている時には実際のキツネうどんは何千キロも遠くに存在する。


5月から続いたドサまわりに一時的に終止符を打ったとある秋のある日、旧東独の村の八百屋に水の容器と箱を返しに行った。容器代も箱代も勿論前払いしている。糞ばばあは何か買えと言う。引き上げる直前だし、無理してまでも買えるようなものはその店には無い。うるさいから代金を受け取らずに店を出ようとするといきなりその糞ばばあは大声で罵り始めた。その狂った様なドイツ語の意味はわからないけれど、罵倒し非難している事はわかる。まるで人が泥棒が強盗かの様だ。もうどうでもいい事なので無視して店を出ようとすると、金を投げてよこした。それは日本円で千円に足りない額だった。元々その店で買った水であり、前払いしたものを返してもらうだけなのにこんな扱いだ。あんな罵られ方をしたら殺人事件が発生しても不思議では無い。幸いその言葉は自分にとってただの雑音にしかならないのでテレビを見ているのと同じ感覚だった。心の底から大戦後のドイツ人は人間として最低だと思う。それよりもっと腐った東側の一般人は腐敗している。けれどそんな腐敗した奴らの方が平均的日本人よりは豊かに暮らしている。

  

 僕は、わけもなくプライドだけがやたらと高い、ピノキオみたいな人間は心から軽蔑する。吐き気がする。プライドなんて生きていく上で邪魔にしかならないと思っている。特に学歴からくるプライドには反吐が出る。アリバイがそんなに大事なのかと思う。それとプライドの高い人間に多いが、アリバイが無い反動から来るコンプレックスによる言動にも反吐が出る。どっちにしても僕の人生には全然関係が無い事だが、こんな事に延々と付き合わされるこちとらたまったもんじゃ無い。

 


 

     
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